赤いカーテン

時黄巾新破、兵凶之後、郡縣重斂、因縁生姦。詔書沙汰刺史・二千石、更選清能吏、乃以(賈)蒴為冀州刺史。
舊典、傳車驂駕、垂赤帷裳、迎於州界。及蒴之部、升車言曰「刺史當遠視廣聽、糾察美惡、何有反垂帷裳以自掩塞乎?」乃命御者褰之。百城聞風、自然竦震。 其諸臧過者、望風解印綬去、唯癭陶長濟陰董昭・觀津長梁國黄就當官待蒴、於是州界翕然。
(『後漢書』列伝第二十一、賈蒴伝)


交阯刺史として功績のあった後漢の賈蒴は、黄巾の乱の影響が大きかったところの一つ冀州の刺史となった。



そこでは(冀州だけに限らないが)復興増税を財源とした復興予算で不正を働く者も多かったのである。




そこで賈蒴が州に入るとき、こんなことを言い出した。




「馬車を覆い隠している赤いカーテンを上げて見えるようにしなさい。刺史というのは遠くまで見通して監察することが仕事。どうして自ら覆い隠しておいてよいものか」





これを聞いた監察される側の役人たちは、「これでは自分たちの悪事もバレるだろう」と思い、たった二人を除いて全員が自ら辞職したという。







思うに、賈蒴以前の刺史は郡県の長官たちの不正を見て見ぬふりすることも少なくなかったのではなかろうか。



賈蒴は前例を破り「刺史の目を覆っていたカーテンを取り去って遠くまで見通す」と宣言することで、「今までのようなお目こぼしは無いものと思え」と警告を発したのだろう。