比景

徙其家屬於比景、宗族・門生・故吏皆斥免禁錮
(『後漢書』列伝第五十六、陳蕃伝)

使光祿勳袁盱持節收(梁)冀大將軍印綬、徙封比景都郷侯。冀及妻壽即日皆自殺。
(『後漢書』列伝第二十四、梁冀伝)

後漢の時代、失脚した官僚や外戚強制移住させられたり移封させられたりした定番のひとつが「比景」だったらしい。



日南郡、故秦象郡、武帝元鼎六年開、更名。有小水十六、并行三千一百八十里。屬交州。戸萬五千四百六十、口六萬九千四百八十五。縣五。
朱吾。
比景。
盧容。
西捲。水入海、有竹、可為杖。莽曰日南亭。
象林。

【注】
如淳曰「日中於頭上、景在已下、故名之。」
(『漢書』巻二十八下、地理志下、日南郡)

「比景」というのは交州の中でももっとも遠い南西部の「日南郡」にある県の名前である。


「太陽が頭上にあり、影は自分の下にあるということから名づけられた」のだそうだから、太陽が真上から照りつけるという灼熱地獄(中原の人間からすれば)という環境だったということだろうか。




前漢強制移住先といえば西域方面や漢中(房陵)、あるいは交州でも合浦あたりという印象なので、後漢の交州方面での開拓が進んだことが契機となって強制移住先もより遠くへ伸びて行ったのかもしれない。