後漢の交阯(交州)

舊交阯土多珍産、明璣・翠羽・犀・象・瑇瑁・異香・美木之屬莫不自出。
前後刺史率多無清行、上承權貴、下積私賂、財計盈給、輒復求見遷代、故吏民怨叛。
中平元年、交阯屯兵反、執刺史及合浦太守、自稱「柱天將軍」。靈帝特勑三府精選能吏、有司舉(賈)蒴為交阯刺史。蒴到部、訊其反状、咸言賦斂過重、百姓莫不空單、京師遙遠、告冤無所、民不聊生、故聚為盜賊。蒴即移書告示、各使安其資業、招撫荒散、蠲復傜役、誅斬渠帥為大害者、簡選良吏試守諸縣、歳輭蕩定、百姓以安。
(『後漢書』列伝第二十一、賈蒴伝)

後漢の頃、交阯すなわち交州のあたりは中原には無い産物が多く、それゆえに刺史たちは権力者からの命や自分の私腹を肥やすために定めを超えて収奪を行い、そのために反乱が多かったのだという。



それでいて、民は自分たちの窮状を訴えようにも都洛陽が遠すぎるために果たされず、追い詰められて反乱を起こしていた、のだそうだ。






異民族の来襲や反乱の多発から見捨てられつつあった後漢涼州と事情はほぼ正反対であるが、結果として漢王朝や当時の政権に対する不信感を強めていって暴発するようになるというあたりは似通っているかもしれない。



後漢末に交州をまとめ上げた士氏などは、もしかするとこういった状況を打破してくれそうな一族として期待されていたのかもしれない。