荊楚宿士

先主為漢中王、用荊楚宿士零陵頼恭為太常、南陽黄柱為光祿勳、(王)謀為少府。建興初、賜爵關内侯、後代頼恭為太常。恭・柱・謀皆失其行事、故不為傳。
(『三国志』巻四十五、楊戯伝、季漢輔臣賛)

劉備の元で太常などになっている零陵の頼恭は事績の記録が失われているので列伝を建てなかった、ということが書かれている。

朱符死後、漢遣張津為交州刺史、津後又為其將區景所殺、而荊州劉表遣零陵頼恭代津。是時蒼梧太守史璜死、表又遣呉巨代之、與恭俱至。
漢聞張津死、賜燮璽書曰「交州絶域、南帶江海、上恩不宣、下義壅隔、知逆賊劉表又遣頼恭闚看南土、今以燮為綏南中郎將、董督七郡、領交阯太守如故。」後燮遣吏張旻奉貢詣京都、是時天下喪亂、道路斷絶、而燮不廢貢職、特復下詔拜安遠將軍、封龍度亭侯。
後巨與恭相失、舉兵逐恭、恭走還零陵。建安十五年、孫權遣步騭為交州刺史。
(『三国志』巻四十九、士燮伝)

でもこの交州刺史として劉表から送り込まれた零陵の頼恭って同一人物だろうね。
建安十五年以前の零陵は劉表劉備の勢力圏だから、結局荊州に戻ってきて劉備に従って益州に居ついたということだろう。


もちろん別人だから交州刺史の件が楊戯伝の方に書かれていない可能性もあるが、逃げ帰るというあまり名誉ではない結末だったために事績としてはちゃんと残らなかったのではないだろうか。



まあ「何をいまさら」「そんなの知ってるわい」って話かもしれませんが。