不肖の息子

建安十八年、太祖召為丞相軍議掾、後為歴城侯徽文學、轉為相。徽遭太祖喪、不哀、反游獵馳騁。(高堂)隆以義正諫、甚得輔導之節。黄初中、為堂陽長、以選為平原王傅。王即尊位、是為明帝。
(『三国志』巻二十五、高堂隆伝)

曹操の元に居た高堂隆。彼は建安の末に曹操の息子のひとり歴城侯曹徽お付きの者となった。


その歴城侯曹徽はどうもドラ息子の類であったらしく、曹操が死去しても礼に従った悲哀の顔を見せず、狩猟を平常通り楽しむようなありさまだったという。

そんな彼を高堂隆は諌めて矯正したという。




その後、彼は平原王の傅すなわち曹叡様の「もりやく」となった。

文帝時代の曹叡様といえば色々といわくつきのアレだったりするわけだが、高堂隆が「もりやく」に就任したのは曹叡様が父の勘気に触れる前だったのか後だったのか。
ちょいと気になるところだ。