二代目山陽公

八月壬申、葬于山陽國、陵曰禪陵、置園邑。葬之日、帝制錫衰弁絰、哭之慟。適孫桂氏郷侯康、嗣立為山陽公。
(『三国志』巻三、明帝紀注引『献帝伝』)

漢の献帝が魏の明帝の時代に死亡した時のこと。

禅譲献帝に与えられていた山陽公の地位と領土は、孫の桂氏郷侯康が継ぐこととなった。



「桂氏郷侯」という別の爵位を持っていたということは、劉康はその時点まで正式な後継者とは公認されていなかったことになる。


山陽公を一代限りとしてしまおうという考えが当時の魏朝廷内にあったのか、それとも当時の正妻である曹氏(曹操の娘)の子が産まれるのをギリギリまで待っていただけなのか、山陽公国内の一種のお家騒動があったのか、それとも特に深い意味は無いのか。

妄想はいくらでも出来るが結論は出そうにない。