劉協の孫

太子早卒、孫(劉)康立五十一年、晉太康六年薨。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

適孫桂氏郷侯(劉)康、嗣立為山陽公。
(『三国志』巻三、明帝紀、青龍二年、注引『献帝伝』)


献帝こと山陽公劉協が死ぬと孫の劉康が山陽公を継いでいるが、劉康はその時に「桂氏郷侯」となっていたらしく、太子(太孫)になっていたわけではないらしい。



となると、劉協は死んだ時点では太子を立てていなかったようだ。


立てていた太子に先立たれて間もなかったのか、それとも何らかの理由で太子を立てられないでいたのか、あるいは劉協の側が立てないでいたのか。



このあたりの事情は分からないが、ちょっと興味深い。