『史記』三王世家その1

昔から有名な文であるので知っている人も多いだろうけれど、まだ詳しく知らないという人も多少はいると思うので、今更ながら紹介してみる。

史記』巻六十、三王世家である。
中国古代の上奏と集議と詔書について考える上で必読の資料。

大司馬臣去病昧死再拜上疏皇帝陛下、「陛下過聽、使臣去病待罪行輭。宜專邊塞之思慮、暴骸中野無以報、乃敢惟他議以干用事者、誠見陛下憂勞天下、哀憐百姓以自忘、虧膳貶樂、損郎員。皇子頼天、能勝衣趨拜、至今無號位師傅官。陛下恭讓不恤、羣臣私望、不敢越職而言。臣竊不勝犬馬心、昧死願陛下詔有司、因盛夏吉時定皇子位。
三月乙亥、御史臣光守尚書令奏未央宮。
制曰「下御史。
六年三月戊申朔乙亥、御史臣光守尚書令・丞非、下御史書到、言「丞相臣青翟・御史大夫臣湯・太常臣充・大行令臣息・太子少傅臣安行宗正事昧死上言、大司馬去病上疏曰『陛下過聽、使臣去病待罪行輭。宜專邊塞之思慮、暴骸中野無以報、乃敢惟他議以干用事者、誠見陛下憂勞天下、哀憐百姓以自忘、虧膳貶樂、損郎員。皇子頼天、能勝衣趨拜、至今無號位師傅官。陛下恭讓不恤、羣臣私望、不敢越職而言。臣竊不勝犬馬心、昧死願陛下詔有司、因盛夏吉時定皇子位。唯願陛下幸察。』制曰『下御史』。臣謹與中二千石・二千石臣賀等議、古者裂地立國、並建諸侯以承天子、所以尊宗廟重社稷也。今臣去病上疏、不忘其職、因以宣恩、乃道天子卑讓自貶以勞天下、慮皇子未有號位。臣青翟・臣湯等宜奉義遵職、愚憧而不逮事。方今盛夏吉時、臣青翟・臣湯等昧死請立皇子臣閎・臣旦・臣胥為諸侯王。昧死請所立國名。
制曰「蓋聞周封八百、姫姓並列、或子・男・附庸。禮『支子不祭』。云並建諸侯所以重社稷、朕無聞焉。且天非為君生民也。朕之不紱,海内未洽、乃以未教成者彊君連城、即股肱何勸?皇子未習教義、而彊使為諸侯王、以君連城之人、則大臣何有所勸?其更議以列侯家之。」

まずここで切る。


漢の武帝の時代のこと。
かの有名な大司馬驃騎将軍霍去病が上奏するところから話は始まる。

「陛下の皇子たちも大きくなりましたけど、まだ地位も与えられていませんね?ユー皇子たちにしかるべき地位をあげちゃえばいいじゃない」


その次に「三月乙亥、御史臣光守尚書令奏未央宮」とある。
これはつまり三月乙亥の日に本官が御史で尚書令見習いとなっている光という人物が、尚書令の職務として霍去病からの上奏文について丞相・御史大夫らが意見を付して武帝へ上奏したものを武帝のいる未央宮に伝達したということ。

それについて、武帝は裁可し、「御史に下達してよきにはからえ」と命じた。
つまり却下せず、まずは御史府以下で通常のルートに沿って審議せよということ。


そのあと、なんだか同じ文が繰り返されているが、斜体の繰り返し部分は丞相らによる上奏文内で霍去病の意見として引用している部分。当時の上奏や皇帝の命令ではそれらが省略されずにそのまま丸写しされているということである。

上奏者は「丞相臣青翟・御史大夫臣湯・太常臣充・大行令臣息・太子少傅臣安行宗正事」。
先ほどの裁可を受け、関係官庁が審議した結果がその上奏ということなのだ。
丞相は荘青翟、御史大夫は張湯。他は太常(礼制・祭祀の担当大臣)、大行令(後の大鴻臚。諸侯の担当大臣)、宗正(宗室劉氏の担当大臣)と、皇子に何等かの地位を与える上で関係する大臣の連名である。
「太子少傅臣安行宗正事」は、太子少傅を本官とする安という人物(有名な任安だと言われている)が、宗正の欠員または不在により臨時に宗正を代行し、宗正の権限を行使していることを示す。


「臣謹與中二千石・二千石臣賀等議」という「臣」も、丞相らによる意見の部分。

霍去病の上奏文についての丞相らの結論として、閎・旦・胥の武帝の皇子三人を諸侯王に立てるべきとの意見を武帝に上奏したのである。


そしてその意見に対して、武帝は「御史臣光守尚書令・丞非」つまり尚書令と尚書丞により皇帝の命令つまり「制書」を先述の上奏文と共に御史府へ下した。

つまり、先述の丞相らによる「皇子は諸侯王だろJK」という上奏について、「いや俺の息子に諸侯王とか無いから。列侯とすることにして考え直せや」と差し戻したのである。



次回につづく。