徙戎論その1

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110526/1306339380の「徙戎論」を斜め読みして適当に抄訳っぽいことをしてみる。
抄訳っていうかわからないところは飛ばすこれは大学の講読とか演習ではないので適当でいい。
それに気が向いたら入れていくだろう注釈も前漢頃のばかり充実して見えることだろうけど、それは気のせいではない。

気になったら突っ込みでも間違いの指摘でも「こんなのも読めないなんて訳が分からないよ」といった煽りでも好きに入れてくれ。


ではスタート。いつまで続くか分からないが。


時關隴屢為氐羌所擾、孟觀西討、自擒氐帥齊萬年。統深惟四夷亂華、宜杜其萌、乃作徙戎論。

当時、関中・隴西方面は氐・羌に悩まされていて、孟観将軍が討伐に行き、氐の大将斉万年を捕まえた。江統さんは四夷が中華を乱していることについて深く考え、乱の兆しを閉ざそうとして「徙戎論」を書き上げた。

孟観さんは晋の恵帝の元康九年(西暦299年)に氐討伐に成功し斉万年を捕えた。
江統さんの「徙戎論」はそれを踏まえたものということになる。

其辭曰、夫夷蠻戎狄、謂之四夷、九服之制、地在要荒。春秋之義、内諸夏而外夷狄。以其言語不通、贄幣不同、法俗詭異、種類乖殊。或居絶域之外、山河之表、崎嶇川谷阻險之地、與中國壤斷土隔、不相侵渉、賦役不及、正朔不加、故曰「天子有道、守在四夷」。

夷・蛮・戎・狄を四夷といい、九服の制度では「要」「荒」に当たる地に居る連中です。
春秋の義では、諸夏を中に入れて夷狄を除外します。それは言語も通貨も通じないし、法も習俗も違うし、人種も異なっているし、人里離れた地や山川峡谷などに住んで中国とは地理的にも断絶している者もいて、お互いに干渉せず、賦役も及ばず、中華の暦も使わないからです。そこで「天子が正しい手段を取るならば、四夷がその守りとなる」と言いました。

要・荒は王城から二千里、二千五百里とか離れているところのことを言うそうだ。

「天子有道、守在四夷」については、どうも昔はそういう説があったらしい。良くわからないけど。

禹平九土、而西戎即敘。其性氣貪婪、凶悍不仁、四夷之中、戎狄為甚。弱則畏服、強則侵叛。雖有賢聖之世、大徳之君、咸未能以通化率導、而以恩徳柔懷也。
當其強也、以殷之高宗而憊於鬼方、有周文王而患昆夷・獫狁、高祖困於白登、孝文軍於霸上。
及其弱也、周公來九譯之貢、中宗納單于之朝、以元成之微、而猶四夷賓服。
此其已然之效也。故匈奴求守邊塞、而侯應陳其不可。單于屈膝未央、望之議以不臣。
是以有道之君牧夷狄也、惟以待之有備、禦之有常、雖稽顙執贄、而邊城不弛固守。為寇賊強暴而兵甲不加遠征、期令境内獲安、疆埸不侵而已。

夏の禹王が天下を平らげると、西戎は官位を与えられました。その性格は貪婪凶暴で仁の心が無く、四夷の中でも戎と狄は特にひどかったのです。
彼らは時分が弱い時は服属し、強くなると侵略しました。賢人、聖人の世、大徳の君主の時代であっても、彼らを正道に導けた者は無く、恩徳によって懐柔するのが精いっぱいでした。
彼らが強い時代にあっては、殷の高宗は鬼方によって疲労困憊し、周の文王も昆夷・獫狁に苦しみ、漢の高祖は白登で包囲され、漢の文帝は匈奴迎撃のため霸上に軍を展開しました。
弱い時代では、周公の時に通訳を九人重ねてまで貢物を贈り、漢の宣帝は匈奴単于の来朝を受け、漢の元帝・成帝といった衰微の時代にあっても、四夷は漢に服従しました。
これらが戎・狄の性格の証拠です。それゆえ、前漢時代に匈奴が服属してきて自ら辺境を守ると言いだしても侯応は反対し、単于長安の未央宮に平伏することになっても、蕭望之は反対して匈奴を臣下としないよう建議したのです。
それゆえ、有道の君主が夷狄を統御する時は常に警戒し、服属してきているときでも辺境の防備を緩めたりはしませんでしたし、侵略してきても遠征軍を送ることはなく、領土内を守ることに専念したものです。


古代の聖天子や大物の四夷対策について。
聖天子たちでも強大な時期の戎・狄には苦しめられたということ、逆に弱い時代にはたやすく服属してくる「反復常なき」存在だったことを指摘。

また匈奴が弱体化し中国に服属してきた前漢半ば以降も、そういった性格を熟知して警戒を解いていなかったと続ける。
侯応の話は『漢書匈奴伝下にある。蕭望之の「不臣」議論についてはこれを参照。
匈奴が服属してきたからといってたやすく臣下扱いしなかった。これは厚遇とも言えるが、信用していないとも言える。