孫堅と袁術と伝国の璽

山陽公載記曰、袁術將僭號、聞堅得傳國璽、乃拘堅夫人而奪之。
(『三国志』巻四十六、孫堅伝注引『山陽公載記』)

江表傳曰、案漢獻帝起居注云「天子從河上還、得六璽於閣上」、又太康之初孫皓送金璽六枚、無有玉、明其偽也。
(『三国志』巻四十六、孫堅伝注引『江表伝』)

孫堅袁術の「伝国璽」をめぐる件は諸書の異同がちょっと興味深い。


『山陽公載記』は孫堅が手に入れたものを袁術が強奪したと述べていたらしい。


一方、『江表伝』は他書を引き「バッカでー玉璽は献帝の元にあるじゃん。しかも孫氏の元には玉璽なかったじゃん」と孫堅が「伝国璽」を手に入れたこと自体を否定している*1


昨日の記事にあるように、『三国志』注の『先賢行状』ではまだ袁術から「伝国璽」を取り返したという話になっていない。
『山陽公載記』説に拠った場合、「伝国璽」は袁術敗北後どうなったことになっていたのだろうか。



なお、『隋書』経籍志によれば『山陽公載記』の編者は晋の著作郎楽資という人。

『江表伝』の編者は東晋の北来人虞溥。

何か各書の編集方針、傾向(バイアス)があるのだろうか。

*1:ただしこれは『三国志』注で否定されているように、皇帝が政務に使用する「六璽」と「伝国璽」の区別がついていないという誤謬がある。