皇子か否か

紅陽侯(王)立太后親弟、雖不居位、(王)莽以諸父内敬憚之、畏立從容言太后、令己不得肆意、乃復令光奏立舊惡、「前知定陵侯淳于長犯大逆罪、多受其賂、為言誤朝、後白以官婢楊寄私子為皇子、衆言曰呂氏・少帝復出、紛紛為天下所疑、難以示來世、成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。莽曰「今漢家衰、比世無嗣、太后獨代幼主統政、誠可畏懼、力用公正先天下、尚恐不從、今以私恩逆大臣議如此、羣下傾邪、亂從此起!宜可且遣就國、安後復徴召之。」 太后不得已、遣立就國。莽之所以脅持上下、皆此類也。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

漢の哀帝死後、権力を握った王莽。




だが、その時の王莽の権力は太皇太后(伯母)と擁立した平帝に由来しているため、太皇太后の兄弟である紅陽侯王立が健在で都にいる間は気が気ではなかった。



太皇太后に対して王立が発言力を行使する可能性を否定しきれないのである。




そこで、王莽は自分の側に引き込んでいる大司徒孔光を動かし、王立についてこのような告発させた。



「王立はかつて大逆罪を犯した淳于長の行為を知りながら賄賂を受けていた。またその後も官婢楊寄の私生児を皇子として立てよ、と進言したため、人々は「呂氏・少帝の再来である」と噂し疑いを持った。王立は都を追放し領国に返すべきである」




太皇太后は一度はそれに難色を示したが、王莽自身が王立批判に乗っかってきたことがダメ押しとなり、外戚王氏の重鎮というべき存在であったと思われる王立は都を離れることとなり、王莽の心配の種が一つ片付いたのであった。








「官婢の子を皇子にしようと進言した」というのは、おそらくは皇帝の側仕えの者の中に私生児を産んだ者がおり、王立はその子を皇帝の子と認めて皇子とすべきだと言ったということなのだろう。



王立が進言した相手は後継ぎの子がいなかったことで有名な成帝に違いない。



この話を信じるならば、王立はその子を成帝の後継ぎにしたかったということになるのだろう。



だが多分それは「父が本当に皇帝なのかどうかもわからぬ官婢の子」といったあたりで抵抗する者も多かったのだろうし、呂后とその一族が本当は恵帝の子ではない者を皇帝に立てたという事件を連想する者が出るのも不思議ではない。





なんとか成帝に直系の後継ぎをと願う衷心からの進言であったのか、それこそ自分の都合のいい「他の種」の子を皇帝にしようとした陰謀であったのか、もはや判断はつかない。





ただ、そのような官婢に一発着床させる身に覚えがあったから生じた議論だったのかもしれないわけで、成帝は中々の(いや相当の)豪の者だったのではないか、とは言えるかもしれん。