鎮北将軍と冀州刺史

時公卿以下大議損益、(杜)恕以為「古之刺史、奉宣六條、以清静為名、威風著稱、今可勿令領兵、以專民事。」俄而鎮北將軍呂昭又領冀州、乃上疏曰・・・
(『三国志』巻十六、杜恕伝)

三国志』杜恕伝によると、魏の杜恕は刺史に兵を持たせることに反対であり、鎮北将軍の呂昭が冀州刺史を兼ねることになると、上奏して反対した。


ところで、この時なぜ呂昭は鎮北将軍と冀州刺史を兼ねることになったのか。

(桓範)又聞當轉為冀州牧。是時冀州統屬鎮北、而鎮北將軍呂昭才實仕進、本在範後。範謂其妻仲長曰「我寧作諸卿、向三公長跪耳、不能為呂子展屈也。」其妻曰「君前在東、坐欲擅斬徐州刺史、眾人謂君難為作下、今復羞為呂屈、是復難為作上也。」範忿其言觸實、乃以刀環撞其腹。妻時懷孕、遂墮胎死。範亦竟稱疾、不赴冀州
(『三国志』巻九、曹爽伝注引『魏略』)

呂昭が鎮北将軍の時、桓範が冀州牧になると内定していたらしい。
しかし桓範は呂昭の風下につくのを嫌がり、痛いとこ突いてきた妻にDVして流産させたりした上に結局病気と称して冀州に赴任しなかった。


思うに、呂昭が冀州刺史を急に兼務することになったのは、後任の冀州の長官になるはずの桓範が病欠してしまったからではないだろうか。

だからなんだと言われると困るのだが。