文欽の降伏(一度目)

十三年、文欽詐降、密書與(朱)異、欲令自迎。異表呈欽書、因陳其偽、不可便迎。(孫)權詔曰「方今北土未一、欽云欲歸命、宜且迎之。若嫌其有譎者、但當設計網以羅之、盛重兵以防之耳。」乃遣呂據督 二萬人、與異并力、至北界、欽果不降。
(『三国志』巻五十六、朱桓伝)

呉の朱桓の子の朱異は、魏の文欽から「降伏したいので迎えに来て♡」というメールを受信したそうな。




朱異はそれを怪しんたが孫権は「降伏したいというのは迎えに行かないわけにいかんわ。疑いがあるなら備えを万全にしておくんやで」と言って朱異と呂拠に2万もの兵を率いて迎えに行かせた。



文欽の降伏は擬態であったため案の定降伏しなかった、という。







その時期の文欽というと曹爽と仲が良かったが曹爽らは誅殺された後で、しかも盧江太守文欽は揚州刺史の諸葛誕と仲が悪いなど、地味に四面楚歌の状態であったので、周魴なんかよりもよほど信憑性はあった状態だったのかもしれない(結局、最終的には実際に反乱して呉に降伏するわけだし)。



だからこそ偽降が計略として成立するのだろう。