東萊に到来

太史慈字子義、東萊黄人也。・・・(中略)・・・
由是知名、而為州家所疾、恐受其禍、乃避之遼東。北海相孔融聞而奇之、數遣人訊問其母、并致餉遺。時融以黄巾寇暴出屯都昌、為賊管亥所圍。慈從遼東還。・・・
(『三国志』巻四十九、太史慈伝)

呉の太史慈は若い頃に自分の故郷の郡(東萊郡)の役所に出仕し、そこで州(青州)とのいさかいに首を突っ込むことになって郡を捨てて逃げた。


彼の潜伏先は幽州の最果て遼東郡。


だが彼は母の恩人孔融の危機に際し故郷に戻ってきている。


太史慈が遼東と東萊をこうもあっさりと行き来できるのは、海路を使っているからだろう。

分遼東郡為遼西・中遼郡、置太守。越海收東萊諸縣、置營州刺史。
(『三国志』巻八、公孫度伝)

この公孫度の營州は太史慈の件より後の時代と思われるが、この時期の東萊が海路で遼東と接続されていたからこそ、公孫度も勢力圏拡大が出来たのだろう。