交州は無くても交州刺史

建安十五年、出領鄱陽太守。歳中、徙交州刺史・立武中郎將、領武射吏千人、便道南行。・・・(中略)・・・延康元年、權遣呂岱代(歩)騭、騭將交州義士萬人出長沙。
(『三国志』巻五十二、歩騭伝)

三国呉の歩騭は、建安十五年から延康元年まで交州刺史だったようである。

十八年春正月庚寅、復禹貢九州。
【注】
獻帝春秋曰「時省幽・并州、以其郡國并於冀州。省司隸校尉及涼州、以其郡國并為雍州。省交州、并荊州益州。於是有兗・豫・青・徐・荊・楊・冀・益・雍也。」九數雖同、而禹貢無益州有梁州、然梁・益亦一地也。
(『後漢書』本紀巻九、孝献帝紀、建安十八年)

だが、建安十八年、献帝は九州制復古を命じていて、それによれば交州は消滅し、その領域は荊州益州に分割吸収されたのだという*1


だが歩騭が建安十八年以降に交州刺史を降りたといった記事は無く、延康元年までずっと交州刺史であったかのように書かれている。



建安十八年頃、孫権献帝による詔を華麗にスルーしていたということになる。

赤壁以降曹操と敵対していたのだから当然といえば当然だが。



なお、この件はhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20110110/1294585299のコメントでの徳操氏の指摘が元になった覚え書きであることを付記しておく。


*1:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110110/1294585299の徳操氏のコメントによればば、建安二十三年に交州は復活したそうだ。氏はこの年の交州復活を孫権臣従による歩騭の交州刺史追認ではないかと指摘している。