制海権

又曰、「臣父(公孫)康、昔殺(孫)權使、結為讎隙。今乃譎欺、遺使誘致、令權傾心、虛國竭祿、遠命上卿、寵授極位、震動南土、備盡禮數。又權待(宿)舒・(孫)綜、契闊委曲、君臣上下、畢歡竭情。而令四使見殺、梟示萬里、士衆流離、屠戮津渚、慚恥遠布、痛辱彌天。權之怨疾、將刻肌骨。若天衰其業、使至喪隕、權將内傷憤激而死。若期運未訖、將播毒螫、必恐長虵來為寇害。徐州諸屯及城陽諸郡、與相接近、如有船衆後年向海門、得其消息、乞速告臣、使得備豫。」
(『三国志』巻八、公孫淵伝注引『魏略』)


孫権の使者を殺して魏に報告した公孫淵の魏への上表の中の一節。


「ワシ孫権の使者ぬっ殺してやりましたわ。天が孫権を滅ぼそうとしてるなら、この件の憤激でポックリ逝っちまいますぜきっと。もしそうでないとしたら、孫権の野郎はまた侵略してくることだろうから、徐州の拠点や城陽郡などの呉の近接地に孫権の船団を見かけたらワシに報告するよう言っといてくだせえ。孫権の野郎への備えを万全にしときますわ」


一見かなりの距離と魏領土と海によって遠く隔てられているかのように見える呉と遼東は、実は軍事的にも極めて密接な関係にあったというお話。


孫権の軍勢がしばしば公孫氏の勢力下にまで到達していることから分かるように、実際には徐州・青州の海岸沿いの魏領土は単独では呉の船団が遼東側にまで行くのを阻止することが困難だった模様。


上記の上表もそんな情勢を反映し、公孫淵は「孫権が来たらワシがあんさんの代わりに迎撃してやりますぜ」と言っているのだろう。


言い換えると、当時の青・徐州方面の制海権は魏ではなく実質的には遼東公孫氏の手に握られていたも同然だったのかもしれない。


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*1:https://twitter.com/#!/osacchi_basstrb/status/190766174731116545にヒントを得ました。勝手ながら使わせていただき感謝します。