影武者皇帝孫晧

三年、會稽妖言章安侯奮當為天子。臨海太守奚熙與會稽太守郭誕書、非論國政。誕但白熙書、不白妖言、送付建安作船。遣三郡督何植收熙、熙發兵自衛、斷絶海道。熙部曲殺熙、送首建業、夷三族。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝、鳳凰三年)

江表傳曰、(孫)晧以張布女為美人、有寵、晧問曰「汝父所在?」答曰「賊以殺之。」晧大怒、棒殺之。後思其顔色、使巧工刻木作美人形象、恆置座側。問左右「布復有女否?」答曰「布大女適故衛尉馮朝子純。」即奪純妻入宮、大有寵、拜為左夫人、晝夜與夫人房宴、不聽朝政、使尚方以金作華燧・歩搖・假髻以千數。令宮人著以相撲、朝成夕敗、輒出更作、工匠因縁偷盜、府藏為空。
會夫人死、晧哀愍思念、葬于苑中、大作冢、使工匠刻柏作木人、内冢中以為兵衛、以金銀珍玩之物送葬、不可稱計。已葬之後、晧治喪於内、半年不出。
國人見葬太奢麗、皆謂晧已死、所葬者是也。晧舅子何都顏状似晧、云都代立。臨海太守奚熙信譌言、舉兵欲還誅都、都叔父植時為備海督、撃殺熙、夷三族、譌言乃息、而人心猶疑。
(『三国志』巻五十、孫和何姫伝注引『江表伝』)

建衡二年、孫晧左夫人王氏卒。晧哀念過甚、朝夕哭臨、數月不出、由是民間或謂晧死、訛言奮與上虞侯奉當有立者。奮母仲姬墓在豫章、豫章太守張俊疑其或然、掃除墳塋。晧聞之、車裂俊、夷三族、誅奮及其五子、國除。
(『三国志』巻五十九、孫奮伝)

孫晧の時代、揚州の臨海太守奚熙が反乱すると言う事件があった。
この時、会稽郡では孫権の息子、つまり孫晧の叔父に当たる孫奮が天子になるべきだ、という妖言があり、奚熙はどうやらそれに関してとなりの会稽太守に対して皇帝を非難するような書を送っていたようなのだ。
会稽太守は奚熙の発言を皇帝に報告したため、皇帝孫晧は叔父の何植を派遣して奚熙を収監しようとした。そこで反乱を起こしたが結局敗死したのだという。


だがこの孫奮が即位すべしという妖言には裏があった。
どうやら、寵姫が死ぬと盛大に葬式を開き、それからずっと公式の場に姿を現さなくなったことから、孫晧が既に死んでいて今いるのは影武者だという噂が流れ、そこで孫奮が皇帝になるべきだという話が巻き起こったというのである*1


つまり孫晧が死んでいるという噂が流れ、そこで孫奮即位を望む声が生まれ、臨海太守奚熙はそれに惑わされたということなのだろう。

孫晧死亡説自体が、反孫晧派あるいは反乱した奚熙によるでっちあげだと想像をたくましくすることもできるだろう。
ただ、そういう流言が一定の説得力を持つ程度に、孫晧は人前に姿を現さない期間が長かったのではないかと思う。



*1:『江表伝』と『三国志』孫奮伝ではその事件が起こった時期などが異なっている。もしかしたら、建衡二年頃に生まれた孫奮即位の噂が一人歩きし、鳳凰三年まで続いていたのかもしれない。