禽獣皇子

建衡二年、孫晧左夫人王氏卒。晧哀念過甚、朝夕哭臨、數月不出、由是民間或謂晧死,訛言(孫)奮與上虞侯奉當有立者。奮母仲姫墓在豫章、豫章太守張俊疑其或然、掃除墳塋。晧聞之、車裂俊、夷三族、誅奮及其五子、國除。
【注】
江表傳曰、豫章吏十人乞代俊死、晧不聽。奮以此見疑、本在章安、徙還呉城禁錮、使男女不得通婚、或年三十四十不得嫁娶。奮上表乞自比禽獸、使男女自相配偶。晧大怒、遣察戰齎藥賜奮、奮不受藥、叩頭千下、曰「老臣自將兒子治生求治、無豫國事、乞丐餘年。」晧不聽、父子皆飲藥死。
(『三国志』巻五十九、孫奮伝)

孫晧の時、孫権の唯一残っていた皇子である章安侯孫奮は疑われて一家丸ごと監禁された。



完全に監禁されたことにより子供たちは結婚もできずに高齢になってしまったため、孫奮は敢えて自分たちを禽獣だと言い、近親間でも繁殖する禽獣と同じように禽獣たる自分たちも身内で結婚させてほしい、と言い出したという。



孫晧はそれに怒って孫奮に毒薬を贈った(自殺を求めた)が、孫奮はそれにも「政治には関わらないし食い扶持も自分たちで何とかするから命は助けてほしい」と言ったのだとか。





当時の常識、上流階級的な思考としては相当異端じゃないだろうか(上記引用の後で裴松之はこの内容について疑義を呈しているが)。





あるいは、ゲスのまんぐり返しというヤツだろうが、監禁生活の中ですでに禽獣状態になってしまっていたからこそ出てきたお願いだったのかもしれないな・・・。