公子

至王莽篡位、以舊恩召見(樓)護、封為樓舊里附城。而成都侯(王)商子邑為大司空、貴重、商故人皆敬事邑、唯護自安如舊節、邑亦父事之、不敢有闕。時請召賓客、邑居樽下、稱「賤子上壽」。坐者百數、皆離席伏、護獨東鄉正坐、字謂邑曰「公子貴如何!」
【注】
蘇林曰「邑字公子也」
(『漢書』游俠伝、楼護)

前漢末から新にかけての人、楼護。
元は医者だったが経書を学び官僚になった人で、当時の外戚王氏と仲が良かった。


その王氏の一人、大司空王邑は父王商が楼護と付き合いがあったという関係で楼護を尊び、父と同等の礼を執ったという。

その際、楼護は王邑を字で呼び、「公子、何とも高貴な身分になったものだな」と言ったという。


「公子」は普通名詞としての意味合いにも取れそうだが、「字で呼んだ」ということは「公子」が大司空王邑の字なのだと思われる。