山陽公

衛公・宋公。本注曰、建武二年、封周後姬常為周承休公。五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。
(『続漢書』百官志五)

後漢の時代、周王の末裔は衛公、殷王の末裔(孔子の末裔だが)は宋公に封じられ、「漢賓」つまり漢王朝の賓客として特別扱いされた。

当時は現在の王朝とその前の二つの王朝を合わせて三つの王朝が保存されるということを重視し、王朝の儀式上必要な行為だったらしい。


後漢献帝は帝位を譲ると魏から山陽公に封じられるが、これはただの捨扶持や禅譲してくれたからというだけの特別扱いではない。
漢にとって前の二つの王朝は殷と周だが、魏にとっては周と漢がそれに当たる。
魏としては、儀式上漢の末裔を賓客として扱わなければならないのだ。

(だから、漢の時代に周王の末裔を通常の列侯より格上の「公」としていたように、元漢帝を同じく「公」としなくてはならなかったのだろう。)

山陽公は魏にとって儀式・儀礼上必要な存在だったのだ。



蛇足になるが、三国時代の呉も形式上は漢の後継王朝になるから、この礼典が共通していれば呉の賓客として周王の末裔と漢帝の末裔を迎えていることになる。周王の末裔はともかく、漢帝の末裔として誰を迎えていたのか(迎えようとしていたのか)気になるところだ。