呉と利城郡と遼東

嘉禾元年春正月、建昌侯慮卒。三月、遣將軍周賀・校尉裴潜乘海之遼東。秋九月、魏將田豫要撃、斬賀于成山。冬十月、魏遼東太守公孫淵遣校尉宿舒・閬中令孫綜稱藩於權、并獻貂馬。權大悦、加淵爵位
(『三国志』呉主伝)

三国時代、呉の孫権が皇帝を称した後のこと。
孫権は遼東で半独立状態の公孫淵に誘いをかけた。

そこで驚いたことに、江南から遼東の間には魏領があるはずなのに船を出して公孫淵まで兵を出しているのだ。
もちろん兵といってもごく少数だとは思うが、孫権公孫淵もよく使者を往来させられたものだと思う。


思うに、この秘密はhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100717/1279295021で指摘したような部分にあるんではないかと思う。

つまりこういうことだ。
これより先、魏では徐州・青州の境あたりで利成郡(利城郡)の反乱が起こり、頭目に担がれていた唐咨は呉へ亡命した。
反乱は鎮圧されているが、一味が全滅したわけではないだろう。地下に潜ったのだ。
呉にいる唐咨は、利城郡近辺にいるであろう元一味から協力を得られる立場なのだ。
江南を出港した呉の使者の船は、この唐咨コネクションで蒼州方面での補給や嚮導を受けられたのではないだろうか。


唐咨の降伏、更に元をたどると利城郡の反乱が呉と遼東を繋いだ、のかもしれない。