地獄の沙汰も金次第

五月、詔曰「人不患其不知、患其為詐也。不患其不勇、患其為暴也。不患其不富、患其亡厭也。其唯廉士、寡欲易足。今訾算十以上乃得宦、廉士算不必衆。有市籍不得宦、無訾又不得宦、朕甚愍之。訾算四得宦、亡令廉士久失職、貪夫長利」
(『漢書』景帝紀、景帝後二年)

漢の景帝の時代まで、吏になるためには「訾算十」(注によれば十万銭)の資産家でなければいけなかったという。
その制度をこの時に四万銭まで緩めたのだ。理由は「清廉な者は資産が少ないものなので、そういった者がニートにならないように、強欲な奴ばかりがはびこらないように」だそうだ。
それまでの時代は、当時における資産家でなくては官僚になること自体が出来なかったのだ。


時代は下って有名な後漢霊帝の売買官。

初開西邸賣官、自關内侯・虎賁・羽林、入錢各有差。私令左右賣公卿、公千萬、卿五百萬。
(『後漢書』孝霊帝紀、光和元年)

この売官制度の元では、官僚になるには銭が必要だった。
つまり資産家でもなければ到底官僚にはなれない。
景帝の改正の逆を行っていることになるが、裏を返すと景帝以前の制度に理念的には近づいた、と言えないこともない。


現実は皇帝や宦官の銭集めだとしても、売官制度の一応の理由づけは「復古」だったのかもしれない。