漢最後の琅邪王

是歳、曹操殺琅邪王熙、國除。
(『後漢書孝献帝紀、建安二十一年)

曹操が魏王になった年、琅邪王の方の劉熙が処刑された。
後漢書』琅邪孝王京伝によれば長江を渡ろうとした、すなわち孫権に与しようとしたためらしい。


ここでふと思ったこと。
この琅邪王熙の領地は琅邪。曹操の父、曹嵩が疎開していた土地である。
と同時に、後漢末の琅邪といえば、山賊と区別つかないような臧霸が根城としていた土地である。
そしてそこの王は曹操がいよいよ漢を簒奪しようかという時期になって呉と通じようとした。(いや、元々通じていたかもしれないが)
どうもこの時期の琅邪がよくわからない。
秩序が保たれていた土地だったのか、それとも保たれていない土地だったのか。

思うに、曹嵩の死が事故にしろ陰謀にしろ、泰山郡の方まで来てから殺害されたという点では『三国志武帝紀注で引用する『世語』、『呉書』で一致している。
琅邪時代は曹嵩は無事だった。疎開先であることを考えればある意味当然であるが。
琅邪は臧霸たちのお蔭かどうか知らないが、ある程度は秩序が保たれていたのではなかろうか。


しかし、その秩序が保たれたかもしれない琅邪を破壊した者がいる。
曹操である。

興平元年、復東征、略定瑯邪・東海諸縣。(陶)謙恐、欲走歸丹楊。會張邈叛迎呂布、太祖還擊布。是歳、謙病死。
(『三国志陶謙伝)

この仕打ちを受けた琅邪の民、そして王はどんな気持ちだったか。
その時の王ではないとはいえ、後に琅邪王が曹操による簒奪の過程を目の当たりにして呉に与しようとしたのも、故なきことではなかったのかもしれない。