建安初期の京兆尹

魏略曰、畿少有大志。在荊州數歲、繼母亡後、以三輔開通、負其母喪北歸。道為賊所劫略、衆人奔走、畿獨不去。賊射之、畿請賊曰「卿欲得財耳、今我無物、用射我何為邪?」賊乃止。
畿到鄉里、京兆尹張時、河東人也、與畿有舊、署為功曹。
(『三国志』杜畿伝注引『魏略』)

正確な時期が不明だが、杜畿が関中に戻った頃と思われる建安の初期、長安近辺を統治する京兆尹は河東の人、張時なる人物であったらしい。
「三輔開通」は李傕らが討たれて関中の勢力図が塗り替わった頃のことを言うのだろうか。

張時が曹操と直接つながる人物なのか、それとも李傕らの時代に任命されたのか、関中諸将の一人なのか、これだけでは何とも分からないが。