『三国志』武帝紀を読んでみよう:その34

その33(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/08/000100)の続き。





秋七月、公西征、與(馬)超等夾關而軍。公急持之、而潛遣徐晃・朱靈等夜渡蒲阪津、據河西為營。公自潼關北渡、未濟、超赴船急戰。校尉丁斐因放牛馬以餌賊、賊亂取牛馬、公乃得渡、循河為甬道而南。賊退、拒渭口、公乃多設疑兵、潛以舟載兵入渭、為浮橋、夜、分兵結營于渭南。賊夜攻營、伏兵撃破之。超等屯渭南、遣信求割河以西請和、公不許。
九月、進軍渡渭。超等數挑戰、又不許。固請割地、求送任子。公用賈詡計、偽許之。韓遂請與公相見、公與遂父同歳孝廉、又與遂同時儕輩、於是交馬語移時、不及軍事、但説京都舊故、拊手歡笑。既罷、超等問遂「公何言?」遂曰「無所言也。」超等疑之。他日、公又與遂書、多所點竄、如遂改定者。超等愈疑遂。
公乃與克日會戰、先以輕兵挑之、戰良久、乃縱虎騎夾撃、大破之、斬成宜李堪等。遂・超等走涼州、楊秋奔安定,關中平。
諸將或問公曰「初、賊守潼關、渭北道缺、不從河東撃馮翊而反守潼關、引日而後北渡、何也?」公曰「賊守潼關、若吾入河東、賊必引守諸津、則西河未可渡、吾故盛兵向潼關。賊悉衆南守、西河之備虚、故二將得擅取西河。然後引軍北渡、賊不能與吾爭西河者、以有二將之軍也。連車樹柵、為甬道而南、既為不可勝、且以示弱。渡渭為堅壘、虜至不出、所以驕之也。故賊不為營壘而求割地。吾順言許之、所以從其意、使自安而不為備、因畜士卒之力、一旦撃之、所謂疾雷不及掩耳、兵之變化、固非一道也。」
始、賊毎一部到、公輒有喜色。賊破之後、諸將問其故。公答曰「關中長遠、若賊各依險阻、征之、不一二年不可定也。今皆來集、其衆雖多、莫相歸服、軍無適主、一舉可滅、為功差易、吾是以喜。」
冬十月、軍自長安北征楊秋、圍安定。秋降、復其爵位、使留撫其民人。
十二月、自安定還、留夏侯淵長安
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、馬超らに勝利。



見た感じ馬超らを振り回した完勝という印象。戦後、魏武の舌もかなり滑らか。赤壁以来久しぶりの気持ちの良い勝ち方だったのかもしれない。



從討韓遂馬超於潼關。太祖將北渡、臨濟河、先渡兵、獨與(許)褚及虎士百餘人留南岸斷後。超將歩騎萬餘人、來奔太祖軍、矢下如雨。褚白太祖、賊來多、今兵渡已盡、宜去、乃扶太祖上船。賊戰急、軍爭濟、船重欲沒。褚斬攀船者、左手舉馬鞍蔽太祖。船工為流矢所中死、褚右手並泝船、僅乃得渡。
(『三国志』巻十八、許褚伝)


ただ、渡河の際に馬超に急襲され、船に乗ろうとする味方の兵を斬って捨て、船を漕ぐ者まで死ぬという相当な危機に見舞われてもいた。赤壁の時より危険だったのではないかとも思えるが、終わり良ければすべてヨシ、なのだろう。



なお馬超韓遂の離間策は賈詡の発案であるという。韓遂らの性格などから導き出した、涼州の人間である賈詡ならではの策なのかもしれない。




関中の軍閥たちをあらかた片付けた魏武、張安に夏侯淵を残して帰途に就く。



張魯は予定を変更して後回しにしたのか、それとも当初からこういう順番だったのか。



まあ、まだ馬超は生きているので、迂闊に張魯に注力するわけにもいかないのだろう。