司馬遷の系図操作疑惑

自司馬氏去周適晉、分散、或在衛、或在趙、或在秦。其在衛者、相中山。在趙者、以傳劍論顯、蒯聵其後也。在秦者名錯、與張儀爭論、於是惠王使錯將伐蜀、遂拔、因而守之。錯孫靳、事武安君白起。而少梁更名曰夏陽。靳與武安君阬趙長平軍、還而與之俱賜死杜郵、葬於華池。靳孫昌、昌為秦主鐵官、當始皇之時。蒯聵玄孫卬為武信君將、而徇朝歌。諸侯之相王、王卬於殷、漢之伐楚、卬歸漢、以其地為河内郡。昌生無澤、無澤為漢巿長。無澤生喜、喜為五大夫、卒、皆葬高門。喜生談、談為太史公。
(『史記』太史公自叙)

司馬遷が自分の氏である司馬氏から出た有名人を誇る場面。数百年前に分派した筈の家のことまで記述している。
(ちなみによく司馬遷の家を「代々歴史家」みたいに表現する人を見かけるのだが、どう読んでも司馬遷の父司馬談以前は歴史家と関係ない時代の方が長かったようにしか思えない。)


「趙の蒯聵とか殷王司馬卬(晋王朝の司馬氏の先祖とされてる人)も同族なんだぜ、凄いだろ。」

みたいなドヤ顔が浮かんでくるのは自分だけだろうか。


ところで、そんな司馬氏でありながら、しかも漢の高祖、楚の項羽の時代の有名人でありながら司馬遷から一族だという言及が無い人物がいる。


塞王司馬欣である。
彼は雍王章邯の部下で項羽に三秦王に立てられた人物であり、おそらくは秦の人間である。
つまり司馬卬よりも司馬遷と近しい関係であった可能性が高い。

しかし『史記』でそのことについてはまるで触れられていない。


三秦王は新安での項羽による秦人皆殺し事件にかかわったとして秦人から憎まれていたというので、仮にその三秦王司馬欣と親族関係があったとしても、同じ秦人である司馬遷としては隠しておきたい事だった可能性はある。