『漢書』武帝紀を読んでみよう:その1

ちょっと前まで『漢書』景帝紀を見てきたので、もうこうなったらついでに『漢書武帝紀も同じように見ていこうじゃないか。



長生きしたけれど晩年はあまり芳しい話題が無い皇帝といえば武帝だが、そんな老害な側面以外も見えてくるかもしれないし。




孝武皇帝、景帝中子也、母曰王美人。
年四歳立為膠東王。七歳為皇太子、母為皇后。
十六歳、後三年正月、景帝崩。
甲子、太子即皇帝位、尊皇太后竇氏曰太皇太后、皇后曰皇太后
三月、封皇太后同母弟田蚡・勝皆為列侯。
(『漢書』巻六、武帝紀)

武帝は見ての通り7歳で皇太子になっている。



以前見たように元は皇太子は別の人物(劉栄)であったが、その皇太子が廃位されて新たに皇太子となったのである。



7歳であるから、正直言って本人の能力、適性を見て選ばれたのかというと疑問である。



実際にはその母と景帝の姉との関係悪化によって起こった廃立と思った方がよさそうだ。



太后、槐里人、母曰臧兒。臧兒者、故燕王臧荼孫也。臧兒嫁為槐里王仲妻、生男曰信、與両女。而仲死、臧兒更嫁長陵田氏、生男蚡・勝。臧兒長女嫁為金王孫婦、生一女矣、而臧兒卜筮之、曰両女皆當貴。因欲奇両女、乃奪金氏。金氏怒、不肯予決、乃内之太子宮。太子幸愛之、生三女一男。男方在身時、王美人夢日入其懷。以告太子、太子曰「此貴徴也。」未生而孝文帝崩、孝景帝即位、王夫人生男。
(『史記』巻四十九、外戚世家)

太后の「同母弟」田蚡・田勝とは、王太后の母が王太后を産んだのちに夫を失い、田氏と再婚して産んだ子たちのことである。


つまり母は同じで父が違うということだ。




太后はなかなか複雑な環境で生まれ育ったのである。