西平郡の誕生

荀紣進之太祖、太祖以(杜)畿為司空司直、遷護羌校尉、使持節、領西平太守。
太祖既定河北、而高幹舉并州反。
(『三国志』巻十六、杜畿伝)


後漢末以降、涼州には西平郡が置かれていたことは確実だが、いつごろからあったのかよくわからない。



『続漢書』郡国志には記されておらず、その領県は金城郡管轄とされているのだ。




ただ、どうやら史書上では上記の記事が初出のようだ。




とすると、後漢末に司直が置かれたのは建安八年で、高幹が曹操に反旗を翻したのは建安十年頃と思われるので、遅くともこの時期に「西平郡」が生まれたことになる(もちろん、杜畿以前からあったかもしれないので、もっと遡る可能性もある)。





この時期の金城郡と言えば、韓遂であるとか河首平漢王宋建であるとかが健在だった時期のはずだ。




少々想像をたくましくすることになるが、中央に反抗的とも言える金城郡から比較的中央に従順な(あるいは単に中央寄りの)県を独立させ、韓遂や宋建の影響力を少しでも遠ざけたいといった曹操サイドの意図が西平郡を生んだのかもしれない。