『晋書』文帝紀を読んでみよう:その16

その15(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/29/000100)の続き。





昔先王選建明徳、光啟諸侯、體國經野、方制五等。所以藩翼王畿、垂祚百世也。故齊魯之封、於周為弘、山川土田、邦畿七百、官司典策、制殊羣后。惠襄之難、桓文以翼戴之勞、猶受錫命之禮、咸用光疇大徳、作範于後。惟公功邁於前烈、而賞闕於舊式、百辟於邑、人神同恨焉、豈可以公謙沖而久淹弘典哉?今以并州之太原・上黨・西河・樂平・新興・雁門・司州之河東・平陽・弘農・雍州之馮翊、凡十郡、南至於華、北至於陘、東至於壺口、西踰於河、提封之數、方七百里、皆晉之故壤、唐叔受之、世作盟主、實紀綱諸夏、用率舊職。爰胙茲土、封公為晉公。命使持節・兼司徒・司隸校尉陔即授印綬策書、金獸符第一至第五、竹使符第一至第十。錫茲玄土、苴以白茅、建爾國家、以永藩魏室。
(『晋書』巻二、文帝紀

簡単に言えば、周の時の太公望や周公のように司馬昭を広大な国に封建しよう、というところか。




10郡を統べる「晋公」。




なお、魏武が魏公になった時も10郡であった。



ただ、晋公は并州などの後漢末・魏では沈み気味であった地域が多いようにも感じる。敢えて困難地域を取ったように見えない事もない。





司隸校尉陔」は武陔の事。父は武周。魏武と同郷の縁故があったのではないかと思うが、そんな人物の二世も司馬昭の協力者である。




まだ詔が続いている。