後漢末の皇帝についての戯言

東牟侯興居曰「誅呂氏吾無功、請得除宮」迺與太僕汝陰侯滕公入宮、前謂少帝曰「足下非劉氏、不當立」乃顧麾左右執戟者掊兵罷去。有數人不肯去兵、宦者令張澤諭告、亦去兵。滕公迺召乘輿車載少帝出。少帝曰「欲將我安之乎?」滕公曰「出就舍」舍少府。(略)夜、有司分部誅滅梁・淮陽・常山王及少帝於邸。
(『史記』呂太后本紀)

前漢呂后時代。呂后が死んだ後に呂氏が陳平・周勃らのクーデターで打倒されると、陳平・周勃らは新たな皇帝を立てることにした。それが明君文帝である。
その一方で呂后時代の皇帝は「実は劉氏ではなく呂氏が出自を偽って皇帝に立てたのだ」という事が公にされ、彼やその兄弟である王たちは全員が夏侯嬰らによって宮殿を連れ出され、文帝が迎え入れられる一方で殺害された。
恵帝の子、つまり高祖劉邦の孫として即位したはずの皇帝は、廃位の手続きさえ取られずに消されたのである。

また、時代は下って漢の武帝死後、武帝の子で最年長の燕王は、武帝の末子が即位したことを聞くと、「その子供は本当に父の子なのか、霍光の子ではないのか」と疑いの声を挙げたと伝えられている。
燕王は陳平・周勃らが少帝を始末したように、自分が武帝の末子(昭帝)を始末して自ら即位する布石を打ったのであろう。


これを後漢末に再現しようという試みがあった。

呉書曰、(韓)馥以書與袁術、云帝非孝靈子、欲依絳・灌誅廢少主、迎立代王故事。稱(劉)虞功紱治行、華夏少二、當今公室枝屬、皆莫能及。又云「昔光武去定王五世、以大司馬領河北、耿弇・馮異勸即尊號、卒代更始。今劉公自恭王枝別、其數亦五、以大司馬領幽州牧、此其與光武同」
(『三国志公孫瓚伝注引『呉書』)

韓馥は袁術に対して「今の皇帝は霊帝の子ではないから、周勃たちが偽皇帝の少帝を殺して文帝を迎えたのと同じ事をしよう。劉虞は功徳が今の劉氏でも一番ですよ」と誘っている。
関東が董卓に背いた頃のことであるから、霊帝の子ではないというのはもちろん献帝のことである。
そしてここで劉虞の名と功徳を讃え、更に光武帝即位との共通性まで持ち出すというのは、偽皇帝(献帝)を消す代わりに劉虞を皇帝に迎えましょう、という意味である。


董卓と関東の諸将が争っていた時期、少なくとも韓馥や袁紹献帝の存在そのものを抹消し、同時に劉虞を正統な皇帝に立てようと考えていた。
彼らは献帝抹殺のため、彼は劉氏ではない偽皇帝との情報を流していたのだ。

これがどこまで信用された、あるいは利用されたのかわからないが、「献帝の正統性」は大きく揺らいでいたのである。

この非実子説を信用しない者にとっても、そもそも献帝の即位は多くの人々が納得するものとは到底言えない。

  • 嫡子の少帝弁を廃位しての即位
  • 董卓が事実上腕力に訴えて強引に成し遂げた即位
  • いまだ年端のいかぬ少年が傀儡にされるがままの即位

否定要素、不安要素だらけである。

しかも、霊帝が自分の皇后に立てたのは少帝弁の母である何氏。
普通なら、劉弁が皇太子になっていなくとも皇后の実子で霊帝の長男である嫡長子を皇帝にするのが普通であろう。
正統なる後継者とは劉弁なのである。
(『後漢書何進伝には霊帝献帝を後継者にしたがっていたという話があるが、結局これは献帝を二宮事件における魯王の立場に置いているだけである。立太子などで明確にされていない以上、世間での正統後継者は劉弁なのである。もちろん、当時の名士、大臣は多くが劉弁を支持している。)


正統ではない人物が皇帝になってしまった。
正統な皇帝だった皇子は廃位されて殺されてしまった。
これこそが、劉虞即位の気運が高まり、一方で劉焉が自らの即位の野望をいよいよ募らせることとなった原因ではないだろうか。
そして、この非正統皇帝がずっと傀儡同然のままで帝位にあり続けるという異常事態の継続が王朝交代の気運を高めることになり、部下たちに高祖・光武帝のようになれと言われて曹操がヤル気になったり、袁術が皇帝を称したりするようになったのかもしれない。