『三国志』武帝紀を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/03/000100)の続き。





太祖到酸棗、諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。太祖責讓之、因為謀曰「諸君聽吾計、使勃海引河内之衆臨孟津、酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞轘轅・太谷、全制其險。使袁將軍率南陽之軍軍丹・析、入武關、以震三輔。皆高壘深壁、勿與戰、益為疑兵、示天下形勢、以順誅逆、可立定也。今兵以義動、持疑而不進、失天下之望、竊為諸君恥之!」邈等不能用。
太祖兵少、乃與夏侯惇等詣揚州募兵、刺史陳温・丹楊太守周昕與兵四千餘人。還到龍亢、士卒多叛。至銍・建平、復收兵得千餘人、進屯河内。
劉岱與橋瑁相惡、岱殺瑁、以王肱領東郡太守。
袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝、太祖拒之。紹又嘗得一玉印、於太祖坐中舉向其肘、太祖由是笑而惡焉。
(『三国志』巻一、武帝紀)

兵を失った魏武は揚州で兵を集める。かつて大将軍何進劉備をやはり揚州丹楊で募兵させた事がある。


だが結局手元に残った兵は千人ばかりであったとの事である。兵力という点で言うと、数万を擁していた太守たちとは比べものにならない。この時期の魏武に反董卓の諸将間での発言力があったのだろうか?



袁紹が新たな皇帝に立てようとした劉虞は、袁紹とは蓋勲と共に旧知の仲であった。



本来の正統な皇帝(弘農王劉弁)が死んだ以上、董卓が擁する献帝を素直に認めるわけにもいかないので、別の皇帝を立てるというのは理屈としてはおかしくは無い。


最終的に皇帝の座にあり続けていたから正統な皇帝は献帝しかいないように思えるが、この時点での献帝董卓の傀儡にされているだけの幼い皇子でしかない。





「紹又嘗得一玉印、於太祖坐中舉向其肘、太祖由是笑而惡焉」という一文について、大変恥ずかしい話だが、自分は未だに納得のいく解釈が出来ていない。



「舉向其肘」がどういう行動なのか、玉印は何のためのアイテムなのか。劉虞が皇帝になった時に使うつもりのモノだったのだろうか?



この辺は私などよりもずっと三国志ガチ勢な人たちの方がよくわかっているに違いない。



とりあえず、どうやら魏武は対立皇帝を立てようという計画には反対だった、という事ではあるらしい。