『漢書』注釈者の経歴

魏略曰、恕在弘農、𥶡和有惠愛。及遷、以孟康代恕為弘農。
康字公休、安平人。黃初中、以於郭后有外屬、并受九親賜拜、遂轉為散騎侍郎。是時、散騎皆以高才英儒充其選、而康獨緣妃嬙雜在其間、故于時皆共輕之、號為阿九。康既才敏、因在冗官、博讀書傳、後遂有所彈駮、其文義雅而切要、衆人乃更加意。
正始中、出為弘農、領典農校尉。康到官、清己奉職、嘉善而矜不能、省息獄訟、緣民所欲、因而利之。郡領吏二百餘人、涉春遣休、常四分遣一。事無宿諾、時出案行、皆豫敕督郵平水、不得令屬官遣人探候、修設曲敬。又不欲煩損吏民、常豫敕吏卒、行各持鐮、所在自刈馬草、不止亭傳、露宿樹下、又所從常不過十餘人。郡帶道路、其諸過賓客、自非公法無所出給。若知舊造之、自出於家。康之始拜、衆人雖知其有志量、以其未嘗宰牧、不保其能也。而康恩澤治能乃爾、吏民稱歌焉。
嘉平末、從渤海太守徵入為中書令、後轉為監。
(『三国志』杜恕伝注引『魏略』)

漢書』注釈者の一人、孟康。
『魏略』には彼の伝が残っていたらしい。

彼は魏文帝の郭皇后の縁戚で、そのお陰で散騎侍郎になったという。
最初はコネ人事だったことから軽んじられたらしいが、才能を発揮して中書令、中書監にまで出世したという。

嘉平末ということは斉王芳が廃位される頃で、確かに嘉平六年の斉王芳の廃位を請う上奏文の中で、「中書令臣康」という連名がある(『三国志』斉王芳紀注引『魏書』)。
またその二年後、甘露元年には高貴郷公が中書令虞松らと礼典を講義したとの話がある(『三国志』高貴郷公紀注引『魏氏春秋』)ので、それまでに孟康は中書監に昇進したのだと思われる。