関中上林苑

http://www.3guozhi.com/c/ttk2.html
の中で、本論とは関係ない部分で気がついたことがあったのでメモ。

靈帝崩、少帝即位。大將軍何進司隸校尉袁紹謀誅諸閹官、太后不從。進乃召卓使將兵詣京師。
(『三国志董卓伝)

(何)進不聽。遂西召前將軍董卓屯關中上林苑、又使府掾太山王匡東發其郡強弩、并召東郡太守橋瑁屯城皐、使武猛都尉丁原燒孟津、火照城中、皆以誅宦官為言。太后猶不從。
(『後漢書何進伝)

上の二つは同じことを言っているように思われるが、董卓が受けた命令が違っている。『三国志董卓伝では董卓は京師つまり後漢の都洛陽へ兵を連れて進むよう命令されているのに対し、『後漢書何進伝では董卓は関中の上林苑に駐屯するよう命じられているのだ。
上林苑は洛陽にもあるが、ここでは「関中上林苑」と明記されており、前漢時代の皇帝が使った関中にあるほうの上林苑であることになる。


これは矛盾しているのではないか。

と思ったら、どうもそうでもないかもしれない。

(何)苗謂進曰「始共從南陽來、俱以貧賤、依省内以致貴富。國家之事、亦何容易!覆水不可收。宜深思之、且與省内和也」進意更狐疑。
(袁)紹懼進變計、乃脅之曰「交搆已成、形埶已露、事留變生、將軍復欲何待、而不早決之乎?」
進於是以紹為司隸校尉、假節、專命撃斷。從事中郎王允為河南尹。紹使洛陽方略武吏司察宦者、而促董卓等使馳驛上、欲進兵平樂觀。
太后乃恐、悉罷中常侍小黃門、使還里舍、唯留進素所私人、以守省中。
(『後漢書何進伝)

何進伝の先ほどの続き。
洛陽周辺で将を暴れさせても何太后は屈しなかったが、袁紹王允が洛陽を固め、さらに董卓らに洛陽への進軍を促したところ、何太后は震え上がって多くの宦官に暇を出したというのである。


三国志董卓伝は効果の上がらなかった関中上林苑への駐屯のことに触れず、この時のことに絞って記事にしたことになる。
あるいは、実際には関中上林苑まで到達する前に上洛の命が届いたのかもしれない。
(もちろん、編纂された順番を考えると、『後漢書何進伝の方が後から話を膨らませた可能性も否定できないが。)