『史記』陳渉世家を読んでみよう:その9

その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180728/1532703882)の続き。





當此之時、諸將之徇地者、不可勝數。
周市北徇地至狄、狄人田儋殺狄令、自立為齊王、以齊反撃周市。市軍散、還至魏地、欲立魏後故簶陵君咎為魏王。時咎在陳王所、不得之魏。魏地已定、欲相與立周市為魏王、周市不肯。使者五反、陳王乃立簶陵君咎為魏王、遣之國。周市卒為相。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)

斉では陳勝の派遣した周市の影響で田儋が挙兵したが、田儋は自ら斉王となって周市と対立した。



田儋は秦に滅ばされた斉王の一族である。



斉としては陳勝の紐付きではなく、あくまで自分たちで挙兵し、自分たちで王を立てようという想いが強かったのだろうか。






また、その周市は魏にも勢力を広げており、彼は元の魏王の一族であった魏咎を王に立てた。



陳渉之初起王楚也、使周市略定魏地、北至狄、狄城守。田儋詳為縛其奴、從少年之廷、欲謁殺奴。見狄令、因撃殺令、而召豪吏子弟曰「諸侯皆反秦自立。齊、古之建國、儋、田氏,當王。」遂自立為齊王、發兵以撃周市。周市軍還去、田儋因率兵東略定齊地。
(『史記』巻九十四、田儋列伝)

魏豹者、故魏諸公子也。其兄魏咎、故魏時封為寧陵君。秦滅魏、遷咎為家人。
陳勝之起王也、咎往從之。
陳王使魏人周市徇魏地、魏地已下、欲相與立周市為魏王。周市曰「天下昬亂、忠臣乃見。今天下共畔秦、其義必立魏王後乃可。」齊・趙使車各五十乗、立周市為魏王。市辭不受、迎魏咎於陳。五反、陳王乃遣立咎為魏王。
(『史記』巻九十、魏豹彭越列伝)


また、魏の人間と趙、および斉はいずれも周市が魏王になる事を望んだというが、周市本人は固辞し、当時陳勝の元にいた魏咎を王にしたのだという。



陳勝との間で何度も使者が行き来したという事は、陳勝も周市が魏王になる事を望んでいたのかもしれない。






かくして、楚王陳勝に続いて、趙、燕、斉、魏にも新たな王が立ったのであった。