さて、今回は前回までの「丞相」を補足する意味も込めて「相国」について説明したい。
三国志関係で相国というとまず思い出すのはこれだろう。
そう、董卓である。
彼がなった「相国」については、「丞相」の記事の時に引用した以下の文でも出てきていた。
相國・丞相、皆秦官、金印紫綬、掌丞天子助理萬機。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)
つまり丞相と本質的には同じような官職である、と考えられるわけである。
淮陰侯謀反關中、呂后用蕭何計、誅淮陰侯、語在淮陰事中。上已聞淮陰侯誅、使使拜丞相何為相國、益封五千戸、令卒五百人一都尉為相國衛。
(『史記』巻五十三、蕭相国世家)
漢王朝において初めて相国になったのは初代丞相である蕭何。
かの淮陰侯韓信が反乱を企んでいることを知って誅殺する際に功績があって丞相から相国に移っている。
つまり昇進なのであり、相国というのは丞相の上位互換である。
そして、漢王朝で相国になった人間はわずか数人しかおらず(ほとんどは丞相どまりということ)、その一人が董卓*1。
董卓がいきなり相国になったことは、蕭何と同等のドエライ人物であるということの宣言のようなものであったのだ。
董卓が皇帝を関中に連れて行ったことや専横したこと自体は言うまでもないが、相国になったということも当時混乱を招き、董卓への反発を強めた一因だったことがわかるだろう。
帝至自甘城、天子又使兼大鴻臚・太僕庾嶷持節、策命帝(司馬懿)為相國、封安平郡公、孫及兄子各一人為列侯、前後食邑五萬戸、侯者十九人。固讓相國・郡公不受。
(『晋書』巻一、宣帝紀)
なお、三国志の時代の相国というと、司馬懿・司馬師・司馬昭の三人がそれぞれ就任を打診されては断り、司馬昭が蜀を倒す頃になって初めて受け取ったという話もある。
これは、司馬氏は曹操がなっていた丞相以上の官職にふさわしいが、董卓などと違って謙虚なので就任をよしとせずに時期尚早と断り続けていたのだ、という政治的アピールなのだと思われる。
このように、官職の動きひとつを取っても、当時の政治の動きや思惑が透けて見える場合があるのだ。