『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その28

その27(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/21/000100)の続き。





夏四月丙午朔、日有食之。
太尉馬日磾免、幽州牧劉虞為太尉。
丙辰、帝崩于南宮嘉徳殿、年三十四。
戊午、皇子辯即皇帝位、年十七。
尊皇后曰皇太后太后臨朝。
大赦天下、改元為光熹。
封皇弟協為渤海王。
後將軍袁隗為太傅、與大將軍何進參録尚書事。
上軍校尉蹇碩下獄死。
五月辛巳、票騎將軍董重下獄死。
六月辛亥、孝仁皇后董氏崩。
辛酉、葬孝靈皇帝于文陵。
雨水。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

中平6年(夏)からの光熹元年。



あっ霊帝死んだ。



34歳は若いという感じだが、桓帝も36歳、少し前の章帝は32歳。後漢の皇帝の中では相対的にはそんなに早死にではない。



代わって即位したのは皇子劉弁。皇太子にはなっていなかったわけだが、何皇后が産んだ皇子であり、年長でもあるのだから、普通なら劉弁が即位するところだろう。


初、后自養皇子協、數勸帝立為太子、而何皇后恨之、議未及定而帝崩。
太后臨朝、(董)重與太后兄大將軍進權埶相害、后毎欲參干政事、太后輒相禁塞。后忿恚詈言曰「汝今輈張、怙汝兄耶?當勑票騎斷何進頭來。」何太后聞、以告進。進與三公及弟車騎將軍苗等奏「孝仁皇后使故中常侍夏惲・永樂太僕封諝等交通州郡、辜較在所珍寶貨賂、悉入西省。蕃后故事不得留京師、輿服有章、膳羞有品。請永樂后遷宮本國。」奏可。
何進遂舉兵圍驃騎府、收重、重免官自殺。
后憂怖、疾病暴崩、在位二十二年。民閒歸咎何氏。喪還河閒、合葬慎陵。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、孝仁董皇后)


霊帝が死ぬと殺された董重は霊帝の母である董太后の兄の子。董太后霊帝の後継ぎとして皇子劉協(渤海王)を霊帝に勧めていたという。別の時代に置き換えれば、曹丕がいるのに曹植を後継ぎに勧めたようなものだ。


あれ、この人後漢末の朝廷の混乱を産んだ張本人の一人じゃないの?



太后の死も「暴崩」つまり突然死とされていて、周囲は暗殺か自殺を疑う状況だったようだ。世間では皇后(皇太后)何氏を犯人と疑ったのである。



六年、帝疾篤、屬(劉)協於蹇碩。碩既受遺詔、且素輕忌於(何)進兄弟、及帝崩、碩時在内、欲先誅進而立協。及進從外入、碩司馬潘隠與進早舊、迎而目之。進驚、馳從儳道歸營、引兵入屯百郡邸、因稱疾不入。碩謀不行、皇子辯乃即位、何太后臨朝、進與太傅袁隗輔政、録尚書事。
進素知中官天下所疾、兼忿蹇碩圖己、及秉朝政、陰規誅之。袁紹亦素有謀、因進親客張津勸之曰「黄門常侍權重日久、又與長樂太后專通姦利、將軍宜更清選賢良、整齊天下、為國家除患。」進然其言。又以袁氏累世寵貴、海内所歸、而紹素善養士、能得豪傑用、其從弟虎賁中郎將術亦尚氣俠、故並厚待之。因復博徴智謀之士逄紀・何顒・荀攸等、與同腹心。
蹇碩疑不自安、與中常侍趙忠等書曰「大將軍兄弟秉國專朝、今與天下黨人謀誅先帝左右、埽滅我曹。但以碩典禁兵、故且沈吟。今宜共閉上閤、急捕誅之。」中常侍郭勝、進同郡人也。太后及進之貴幸、勝有力焉。故勝親信何氏、遂共趙忠等議、不從碩計、而以其書示進。進乃使黄門令收碩、誅之、因領其屯兵。
(『後漢書』列伝第五十九、何進伝)

後漢書何進伝によると、蹇碩何進を誅殺した上で皇子劉協を立てようとしていたが、何進は難を逃れ、反撃して蹇碩を殺したのだという。


何進やその一味の見解では、黄門つまり宦官は董太后(永楽太后)と癒着していたのだとか。何進とその一党(袁紹袁術や逄紀・何顒・荀攸といったメンバー)が董重・董太后潰しを進めたのは、何皇后と董太后の権力争いというだけでなく、宦官派と反宦官派的な対立構造の一部だったから、なのかもしれない。




袁紹袁術荀攸など、世の三国志ハァンなら誰もが知っているレベルのビッグネームが続々登場である。