荀紣の死亡年について

三国与太噺
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花郁郁たる高陽里
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自分は荀紣の死亡年齢のことまで気にしていなかった。
かつては荀紣スレ(http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1176012581/)の住人だった血がちょっと騒いだので、『三国志』で確認してみた。

會征孫權、表請紣勞軍于譙、因輒留紣、以侍中光祿大夫持節、參丞相軍事、太祖軍至濡須、紣疾留壽春、以憂薨、時年五十。
(『三国志荀紣伝)

曹操孫権を攻める時、侍中・尚書令の荀紣を敢えてこちらによすよう皇帝に願い出て、そのまま軍に留めて従軍させた。
病を得た荀紣は寿春に留まって曹操の軍から離れ、曹操の軍が濡須へ至った頃に死亡した。この時五十歳。

(建安十七年)冬十月、公征孫權。十八年春正月、進軍濡須口、攻破權江西營、獲權都督公孫陽、乃引軍還。
(『三国志武帝紀)

で、その時期について、死亡年を建安十八年とする(これだと享年五十一になってしまう)のは、曹操の軍が濡須で孫権を攻めたのが建安十八年正月だったという武帝紀の記事が根拠だろう。


でもこれを良く考えてみると、どこにも「荀紣の死亡年は建安十八年」とは明記していない。
しかも、その根拠となる武帝紀には「濡須口に進軍して孫権を破った」のが十八年正月だと書いてあるだけで、「曹操が十七年内のうちに濡須に到達していた」ことを否定はできない。
というよりも、荀紣の享年と生年から判断すれば、「曹操の濡須到達」=「荀紣死去」=「建安十七年」と考えるのが自然なのだろう。


陳寿は、最初から荀紣の生年、享年について矛盾無く整理していたのではないだろうか。

ちなみに、『後漢書』では曹操が魏公になる(建安十八年)のを「荀紣の死の翌年」としている。


ただし、先に挙げた両氏の内容そのものにケチをつけるつもりはない。
自分は両氏の記事から、荀紣の死について魏王朝のスタンス、晋王朝のスタンスをそれぞれ別々に斟酌すべきだというように理解したが、そこなどは大いに納得させられた。