建安十七年の政治的決着



このようなツイートに出会ったので確認してみる。


冬十月、曹操征孫權。侍中・尚書荀紣勞軍於譙。
初、董昭等謂曹操宜進爵郡公、九錫備物、以彰殊勳、密以語紣。紣曰「曹公本興義兵、以匡朝寧國、秉忠貞之誠、守退讓之實。君之愛人以徳、不宜如此。」操由是心不平之。是行也、操請紣勞軍、因留紣、以侍中・光祿大夫持節監丞相軍事。次壽春、紣以憂死。
(『後漢紀』孝献帝紀巻第三十、建安十七年)

なるほど、確かに董昭が曹操を「郡公」に就けるべし、と言っている*1




だとすれば、董昭の荀紣に対する密議ははじめから曹操を「郡公」(一郡の公)にするよう求めるものだったことになる。





ただ荀紣死後の実際の領土は昨日の記事の通り「十郡」だったわけだから、董昭の建議というのは領土面では曹操の本来の希望から妥協したものを荀紣に対して述べていたということかもしれない。



確かに、一県の侯がいきなり十郡の公というのは一足飛びに過ぎて、荀紣が言っているように今までの「忠勤」が領土的野心を隠したうわべだけのものだと周囲に思わせてしまうという懸念も出てくるのかもしれない。





その裏では、董昭(=曹操)はまずは一郡の公となって前例を作って段階的にステップアップしようと考えたのだろうし、荀紣は一郡の公をこれ以上は無い最後の妥協点として認めてやった、という気持ちだったのだろう。




そこで、九錫や複数郡の封建を諦める代わりに、魏郡一郡の公となることについては尚書令で実質的に上奏や詔書の発布に絶大な力を持つ荀紣も内諾し、曹操の有利になるように魏郡をできるだけ大きくしてやるという行政区域の変更については荀紣も決裁を通した、というところなのではなかろうか。




それが荀紣の死去によって曹操を複数郡に封建し九錫を下賜することについて反対する者がいなくなり、魏郡以外も曹操の領土する決裁が通ったのだろう。

*1:元ツイートにもあるように『三国志』等では「国公」としているが。