殷侯

(前略)南陽守欲自剄。其舍人陳恢曰「死未晚也」
乃踰城見沛公、曰「臣聞足下約、先入咸陽者王之。今足下留守宛。宛、大郡之都也、連城數十、人民衆、積蓄多、吏人自以為降必死、故皆堅守乘城。今足下盡日止攻、士死傷者必多。引兵去宛、宛必隨足下後。足下前則失咸陽之約、後又有彊宛之患。為足下計、莫若約降、封其守、因使止守、引其甲卒與之西。諸城未下者、聞聲爭開門而待、足下通行無所累」沛公曰「善」
乃以宛守為殷侯、封陳恢千戸。
(『史記』高祖本紀)

秦を武関経由で攻めるため南陽方面へ侵攻した漢の高祖劉邦
南陽郡守齮は劉邦に敗れて宛に篭城したが、包囲されて観念し自殺しようとした。
しかしここで陳恢なる人物がそれを止めて劉邦を説得し、劉邦南陽郡守齮の降伏を受け入れて彼を殷侯にした。


この時点で劉邦は独断で侯の封建を決定できる専断権があったのだろうか。
それとも楚王へ侯に封建するよう言上したことを言っているだけなのだろうか。
もし前者だとしたら、この時の劉邦は意外と強い権限を持っていたことになる。


あと、これは全く関係ない話なのだが、宛を本拠とする将の降伏を受け入れた人物といえば曹操もいる。

張繍の降伏を受けた曹操が調子に乗りすぎてオイタして大失敗したのが、この劉邦の故事を思い出して「やっぱ俺って高祖と同じ星の下に生まれてるんだな!」と思ってしまったからだったりすると面白い。