『漢書』高后紀を読んでみよう:その6

その5(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170915/1505401329)の続き。



夏五月辛未、詔曰「昭靈夫人、太上皇妃也。武哀侯・宣夫人、高皇帝兄姊也。號諡不稱、其議尊號。」
丞相臣平等請尊昭靈夫人曰昭靈后、武哀侯曰武哀王、宣夫人曰昭哀后。
六月、趙王恢自殺。
秋九月、燕王建薨。
南越侵盜長沙、遣隆慮侯竈將兵撃之。
(『漢書』巻三、高后紀)

呂后7年5月、高祖の母、高祖の兄(長男の方)、高祖の姉に位の高い称号を奉ることとした。



穿った見方をすれば、高祖の親族がこのような特別な地位に就くのだから高祖の姻族も特別な地位に就いていいじゃないか、という方向に持って行こうとしているようにも思えてくる。




また、趙王劉恢、燕王劉建が死去。いずれも高祖劉邦の子である。



これで高祖の子で生き残っているのは代王劉恒と淮南王劉長の二人だけになった。




梁王恢之徙王趙、心懐不樂。太后以呂産女為趙王后。王后從官皆諸呂、擅權、微伺趙王、趙王不得自恣。王有所愛姫、王后使人酖殺之。王乃為歌詩四章、令樂人歌之。王悲、六月即自殺。太后聞之、以為王用婦人弃宗廟禮、廢其嗣。
宣平侯張敖卒、以子偃為魯王、敖賜謚為魯元王。
秋、太后使使告代王、欲徙王趙。代王謝、願守代邊。
太傅産・丞相平等言、武信侯呂祿上侯、位次第一、請立為趙王。太后許之、追尊祿父康侯為趙昭王。
九月、燕靈王建薨、有美人子、太后使人殺之、無後、國除。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


趙王・燕王死去についてもやはり『史記』本紀の方が詳しい。



趙王恢は正妻も周囲のお付きの者もみな呂氏の関係者で何一つ自由が無かったという。寵愛していた側室も正妻に殺され、最終的に悲しみのあまり自殺したのだそうだ。


自由の無さに耐えかねたのかもしれない。




燕王建については、死去自体については特別な話は伝わっていないが、側室の子がいた、つまり後継者がいたけれど呂后が殺してしまったのだそうだ。


思うに、呂氏の血を引いていないことが問題だったのではないだろうか。趙王友・趙王恢と正妻が呂氏であったことを見るに、呂后は高祖の息子たちに呂氏をあてがい、監視すると共に次の代以降はその王自体が呂氏の血を引くよう企んだように思う。



また、張敖の子を王にしたというのも面白い。張敖の子というのはつまり高祖の娘魯元公主の子ということなので、高祖と呂后の外孫なのである。

もしかしたら劉氏でも呂氏でもない者でも王になれるかもという期待を周囲に持たせながら、実際には呂氏による王位独占を図ったのかもしれない。




あと3人続けて高祖の子の命を吸うというイデオンBメカのような趙の次の王として代王劉恒が選ばれていたが、劉恒は敢えて断ったという。不吉だから断ったのか、推薦もポーズだけで実際は呂禄がなることが決まっていたことだったのか分からないが、この時の代王は少なくとも表向きは呂氏に従順だったように見える。



この代王というのが誰の事であるのかは言わずともわかっている人が多いだろう。