『漢書』武帝紀を読んでみよう:その17

その16(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171217/1513436677)の続き。




元鼎元年夏五月、赦天下、大酺五日。
得鼎汾水上。
濟東王彭離有罪、廢徙上庸。
二年冬十一月、御史大夫張湯有罪、自殺。
十二月、丞相(荘)青翟下獄死。
春、起柏梁臺。
三月、大雨雪。
夏、大水、關東餓死者以千數。
秋九月、詔曰「仁不異遠、義不辭難。今京師雖未為豐年、山林池澤之饒與民共之。今水潦移於江南、迫隆冬至、朕懼其飢寒不活。江南之地、火耕水耨、方下巴蜀之粟致之江陵、遣博士中等分循行、諭告所抵、無令重困。吏民有振救飢民免其戹者、具舉以聞。」
(『漢書』巻六、武帝紀)

元鼎元年、2年。



鼎がサルベージされた事からこの元号が付いている。




御史大夫張湯、死す。



彼は当時のいわゆる「酷吏」の中でも特にやり手で、かつ成功した人物であったと言っていいが、丞相荘青翟およびその長史との間の政争の果てに丞相・御史大夫双方とも自殺した。



武帝の時代の大臣がよく死ぬと言われるのが良くわかるエピソードではある。



なお、張湯の子が張賀と張安世である。


この2人の名前は、もしこの記事が武帝以降も続けばいずれ目にすることになるだろう。