漢の漢たちを語る5「国の司直、国の禁忌」:蓋寛饒

前漢の宣帝の時、蓋寛饒という者がいた。

彼は儒者であったが、同時に天性の監察官であり、班固は『漢書』の賛で彼を「国の司直」*1であると評した。




擢為司隸校尉、刺舉無所迴避、小大輒舉、所劾奏衆多、廷尉處其法、半用半不用、公卿貴戚及郡國吏繇使至長安、皆恐懼莫敢犯禁、京師為清。
(『漢書』巻七十七、蓋寛饒伝)


彼は宣帝に認められて最高位の監察官と言える司隸校尉に抜擢されると、どんな高官、貴人でも避けることなくガンガン弾劾した。

その弾劾は全てが司法に認められたわけではなかったが、皆その弾劾を恐れて違法行為を行わなくなり、都は清浄化したとまで言われた。


𥶡饒為人剛直高節、志在奉公。家貧、奉錢月數千、半以給吏民為耳目言事者。身為司隸、子常歩行自戍北邊、公廉如此。然深刻喜陷害人、在位及貴戚人與為怨、又好言事刺譏、奸犯上意。上以其儒者、優容之、然亦不得遷。
(『漢書』巻七十七、蓋寛饒伝)


彼がそれだけガンガン弾劾した裏には、給料を半分突っ込んでスパイを放っていたという事があったという。

その一方で給料が少ないために子供は辺境防衛の義務の代わりに出す金が足りず、自ら兵士として辺境に行かなければならなくなったという。


また弾劾しまくっていたから当然なのだが朝廷の有力者からは恨まれ、皇帝の意に逆らう進言なども少なくなかったため、出世はできなかった。

まあこれは当然だろう。
宣帝が許してやっていたことだけでも幸運というもので、蓋寛饒は主君に恵まれていたと言っていいんじゃないだろうか。
そこらの主君なら、そもそもこんな地位には就けないし、就いてもすぐに左遷か処刑されているだろう。




だが、彼の活躍は突然終わりを迎える。

是時上方用刑法、信任中尚書宦官、𥶡饒奏封事曰「方今聖道廢、儒術漸不行、以刑餘為周召、以法律為詩書。」又引韓氏易傳言「五帝官天下、三王家天下、家以傳子、官以傳賢、若四時之運、功成者去、不得其人則不居其位。」書奏、上以𥶡饒怨謗終不改、下其書中二千石。時執金吾議、以為𥶡饒指意欲求、大逆不道。
(『漢書』巻七十七、蓋寛饒伝)


蓋寛饒はある時こんなことを密奏した。


「今、古の聖王たちの正しい道は廃れ、宮刑を受けた罪人たちを周公や召公の地位に就け、法律書五経扱いしております」


つまり、宣帝が宦官を重用し刑法を重んじる姿勢を取っていたことを批判したのである。



だが、宣帝は今までのように彼の発言を許してやることはなかった。


宣帝はその上奏を大臣たちに見せ、処分を検討させたのである。


そこで、大臣の一人はこんなことを指摘した。

「彼は『その地位にふさわしくない者はその地位に居るべきではない』という文を引用しておりますが、これは『今の皇帝陛下は地位にふさわしくない、自分がその地位に居るべきだ』という意味に違いありません!」
「な、なんだってー!!?」


なんと彼は皇帝に対して暗に譲位を求めたという大逆罪で摘発されることになった。

大逆罪は死刑である。



これはこじつけもイイところだが、しかしそれについては指摘した大臣よりも、それに同意してそのまま彼を容疑者として認定した宣帝がそのつもりだった、という点を重視すべきだろう。

宣帝は蓋寛饒を殺すつもりだったのだ。




それは今までの宣帝の態度と矛盾するように見えるが、そういうことではないのだろう。


それだけ、自分の政治的態度そのものへの批判、特に「宦官を任用している」ということへの批判が敏感な部分だったということだと思われる。



蓋寛饒は宣帝の禁忌を見逃していきなり危険域に踏み込んでしまったということだ。




当時の監察官や諫官には割と大胆なことをする人間が少なくないのだが、彼はその中でも大胆であると同時に悲劇的な人物だったと言えよう。


蓋寛饒は犠牲になったのだ。



*1:詩経』からの引用。