さかのぼり前漢情勢7

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成帝、哀帝の時代に「漢マジヤバイ」の風潮があったようだ、と述べてきた。
しかし具体的にどれくらいゲロマズだったのか。

秋、桃李實。大水、河決東郡金隄。冬十月、御史大夫尹忠以河決不憂職、自殺。
(『漢書』成帝紀、建始四年)

(河平)三年九月甲戌、東郡莊平男子侯母辟兄弟五人群黨為盜、攻燔官寺、縛縣長吏、盜取印綬、自稱將軍。
(『漢書』天文志)

會北地浩商為義渠長所捕、亡、長取其母、與豭豬連繫都亭下。商兄弟會賓客、自稱司隸掾・長安縣尉、殺義渠長妻子六人、亡・丞相・御史請遣掾史與司隸校尉・部刺史并力逐捕、察無狀者、奏可。
(『漢書』翟方進伝)

秋、關東大水、流民欲入函谷・天井・壺口・五阮關者、勿苛留。遣諫大夫博士分行視。
(『漢書』成帝紀、陽朔二年)

夏六月、潁川鐵官徒申屠聖等百八十人殺長吏、盜庫兵、自稱將軍、經歷九郡。遣丞相長史・御史中丞逐捕、以軍興從事、皆伏辜。
(『漢書』成帝紀、陽朔三年)

廣漢男子鄭躬等六十餘人攻官寺、篡囚徒、盜庫兵、自稱山君。
(『漢書』成帝紀、鴻嘉三年)

冬、廣漢鄭躬等黨與浸廣、犯歷四縣、衆且萬人。拜河東都尉趙護為廣漢太守、發郡中及蜀郡合三萬人撃之。或相捕斬、除罪。旬月平、遷護為執金吾、賜黃金百斤。
(『漢書』成帝紀、陽朔四年)

十一月、尉氏男子樊並等十三人謀反、殺陳留太守、劫略吏民、自稱將軍。徒李譚等五人共格殺並等、皆封為列侯。
(『漢書』成帝紀、永始三年)

十二月、山陽鐵官徒蘇令等二百二十八人攻殺長吏、盜庫兵、自稱將軍、經歷郡國十九、殺東郡太守・汝南都尉。遣丞相長史・御史中丞持節督趣逐捕。汝南太守嚴訢捕斬令等。遷訢為大司農、賜黃金百斤。
(『漢書』成帝紀、永始三年)

どの時代でもある程度は反乱、群盗もあっただろうし、大水や不作による被害や民の逃亡もあっただろう。
しかし、この時代は頻度とその規模がハンパではない。不穏な情勢であったことは間違いない。


特に九郡を巡ったという申屠聖らの反乱や討伐に三万人を動員した鄭躬の反乱、さらには十九の郡国を巡った蘇令の反乱などは、かなりの規模の反乱であった事が伺える。


朝廷から民に至るまで、不安感や危機感を常に肌で感じるような時代だったのではないだろうか。
まして、当時においては洪水や地震などの天変地異、天文や自然現象は天が示す譴責であるという「天人相関」が信じられていたのだ。
古典を知り天人相関を研究している儒者などは特に「これはマズイ」と感じたことであろう。


そして、朝廷内においても危機的状況が生まれつつあった。

成帝には男子がいなかった。
厳密には、生まれるのだが一人として成長しないのだ。
成帝の血筋は天に拒まれているかのように感じた者もいたことだろう。


更に、成帝から見て極めて血縁の近い親族は弟定陶王劉康と中山王劉興の二人。だが劉康は兄より先に死亡し、劉興はどうも優秀な人物ではなさそう。そしてどちらも子は一人しか成していなかった(どちらも皇帝になった。哀帝と平帝である)。

宣帝の直系までさかのぼれば子孫は多いのだが、元帝の直系は完全に尻すぼみであった。


まともな人間は口にはしなかっただろうが、多くの人間が心の中では「漢マジヤバイ」と思っていたことであろうことがわかるだろう。

現実の支配体制が崩れ始めているという意味でも、天人相関を信じ天譴を怖れる古代人の感覚という意味でも、当時はまさに「末世」であった。