さかのぼり前漢情勢8

今日も適当な感じでhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100209/1265643739の続き。


成帝の時代は反乱や天災の時代だった。
その前半期を事実上統治したのが成帝の伯父である王鳳であった。

元帝崩、太子立、是為孝成帝。尊皇后為皇太后、以鳳為大司馬大將軍領尚書事、益封五千戸。王氏之興自鳳始。
(『漢書』元后伝)

王鳳は成帝の即位と共に大司馬大将軍領尚書事に任命された。
ちなみにこの地位は霍光が就いたものと同一である。

大將軍鳳用事、上遂謙讓無所顓。左右常薦光祿大夫劉向少子歆通達有異材。上召見歆、誦讀詩賦、甚説之、欲以為中常侍、召取衣冠。臨當拜、左右皆曰「未曉大將軍」上曰「此小事、何須關大將軍?」左右叩頭爭之。上於是語鳳、鳳以為不可、乃止。其見憚如此。
(『漢書』元后伝)

成帝やその側近たちは王鳳を憚り、かの劉歆を登用しようかという時も「大将軍のオーケーが出てないとマズイっすよ」と独断で登用しようとする成帝を側近が止め、王鳳も成帝の人事をダメ出しした。
成帝は王鳳の指導下にあった。監視されていたとも言える。

自是公卿見鳳、側目而視、郡國守相刺史皆出其門。又以侍中太僕音為御史大夫、列于三公。
(『漢書』元后伝)

この文は成帝が大臣の一人である王章(外戚ではない)の進言を容れて王鳳更迭を決めたが、結局は皇太后と王鳳によって覆されて王章が殺されることとなった後のことである。
王章の件は王鳳にとってピンチだったが、最後の試練とも言えた。
これを乗り切ったことで王鳳には敵はいなくなり、他の大臣たちは彼を正視することもできない。


王氏にとっては我が世の春というやつであろう。

これが王鳳死後段々と落ち込んでいくのはこれまで見てきたとおりである。


王鳳が睨みを効かせている間は、成帝は自分で何かをするという状況にはなかった。
二十歳という若く希望に燃えていた(かもしれない)時期から十年以上の間を抑えつけられてきた皇帝が、その重しが無くなった時に反動でヤンチャを始めてしまうのも無理からぬことなのかもしれない。

上始為微行出。
(『漢書』成帝紀、鴻嘉元年)

鴻嘉中、上欲遵武帝故事、與近臣游宴。・・・(張)放為侍中中郎將、監平樂屯兵、置莫府、儀比將軍。與上臥起、寵愛殊絶、常從為微行出游、北至甘泉、南至長楊・五莋、闘雞走馬長安中、積數年。
(『漢書』張放伝)

成帝の「微行」つまりお忍び外出が始まったのも、王鳳が死んでからである。
どうやら成帝は武帝をお手本にしようとしたらしく、宴会やら微行やらといったことに力を入れ始める。
そういえば外出中に新皇后を見つけてくるのも武帝と同じであった。

ちなみに微行中の長安での「闘雞走馬」とは宣帝の即位前の行状である。
成帝は武帝だけでなく宣帝もお手本にしようとしたと思われる。


成帝は武帝や宣帝を手本としていた。それなりの意欲、野心はあったのである。
押さえつけられた反動か、やらなくていいところでやりすぎていた感はあるが。

また、成帝が微行中に王氏「五侯」の僭上を見咎め、王氏への信頼が薄らいだことは先に述べたとおり。
皇帝から見えないところで行われている事を見聞したという意味では、微行も無駄ではなかったのだ。

ただ、成帝は武帝や宣帝のようなたくましさや哀帝のような果断さがなかったように思われる。
その辺は生まれながらにして皇帝の座を約束されていたという境遇が関係しているのかもしれない。

そして武帝、宣帝を手本にするという政治姿勢は養子の哀帝に引き継がれたのである。


ところで、なぜ成帝が即位した時に王鳳は霍光しか就いたことの無い大司馬大将軍領尚書事になったのだろうか。
皇帝の方がビクビクするほどの権力者になってしまう危険は予期できたようにも思えるが。

・・・というところで話は次回へ。