さかのぼり前漢情勢6

月曜日に負けずに頑張ろうと奮起しつつhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100207/1265472208の続き。


前回、丞相翟方進が外戚の王氏叩きを進めたと書いた。
王氏といえば王莽の出身一族である。王氏が成帝の外戚として実権を握って王莽に至った・・・なんて思いがちかもしれないが、これは少々実情とは異なる。

確かに成帝が即位して以来、王氏の棟梁であった王鳳は大司馬大将軍となって国政を牛耳った。
しかし王鳳の死という転機が訪れる。

鳳輔政凡十一歲。陽朔三年秋、鳳病、天子數自臨問、親執其手、涕泣曰「將軍病、如有不可言、平阿侯譚次將軍矣。」鳳頓首泣曰「譚等雖與臣至親、行皆奢僭、無以率導百姓、不如御史大夫音謹敕、臣敢以死保之。」及鳳且死上疏謝上、復固薦音自代、言譚等五人必不可用。天子然之。
(『漢書』元后伝)

王鳳は成帝の母である皇太后の同母兄である。
そして王鳳には多くの異母弟がおり、「五侯」と呼ばれる五人が生き残っていた。

王鳳の臨終に際し、成帝は王鳳に「平阿侯譚を後継者にしようと思うがどうだ?」と訊いてみた。
王鳳の意中の人も弟の中でも年長の平阿侯王譚と成帝は思っていたようだが、王鳳の答えは予想を裏切るものだった。


「譚らは私の兄弟ではありますが、皆奢侈僭上の沙汰ばかりで上に立つべき者ではありません。謹厳実直な御史大夫音の方が宜しい。私はこの命を懸けて保証いたします」


「五侯」は王鳳からここまで警戒され、嫌われていた。

王音は王鳳最大のピンチを脱するのに大きな役割を果たした人物で、王鳳らとの血縁は遠かったが、御史大夫となっていたことからも分かるように王鳳から特に目をかけられていた。その意味ではこの指名も意味不明なものではない。
とはいえこの措置に「五侯」が素直に従うとも思えず、王鳳の指名は王氏を二つに割る大事件に結びつく危険もあった。
それでも王鳳が王音を指名せざるを得なかったということは、それだけ「五侯」の素行は王氏にとって危険だったということなのである。

而五侯群弟、爭為奢侈、賂遺珍寶、四面而至。後庭姬妾、各數十人、僮奴以千百數、羅鐘磬、舞鄭女、作倡優、狗馬馳逐。大治第室、起土山漸臺、洞門高廊閣道、連屬彌望。百姓歌之曰「五侯初起、曲陽最怒、壞決高都、連竟外杜、土山漸臺西白虎」其奢僭如此。然皆通敏人事、好士養賢、傾財施予、以相高尚。
(『漢書』元后伝)

「五侯」とは

  1. 平阿侯 王譚
  2. 成都侯 王商
  3. 紅陽侯 王立
  4. 曲陽侯 王根
  5. 高平侯 王逢時

の五人。このうち王逢時は無能とされ世に出なかったが、それ以外はそれなりに有能ではあったが、奢侈を競い、賄賂の山を築くような有様であった。その金はシンパにばら撒かれ、耳目や参謀となって働く者を多く召抱えたという。

もちろんこれはどの時代であれ権力者、権勢を誇る一門にはつきものなんだろうが、彼らはやりすぎていた。
王鳳は単に弟と不仲というだけでなく、いつか王氏にとって禍となって跳ね返ってくるのではないかと考えたのであろう。


そしてそれは現実のものとなった。

初、成都侯商嘗病、欲避暑、從上借明光宮。後又穿長安城、引內灃水注第中大陂以行船、立羽蓋、張周帷、輯濯越歌。上幸商第、見穿城引水、意恨、內銜之、未言。後微行出、過曲陽侯第、又見園中土山漸臺似類白虎殿。於是上怒、以讓車騎將軍音。商・根兄弟欲自黥劓謝太后。上聞之大怒、乃使尚書責問司隸校尉・京兆尹「知成都侯商擅穿帝城、決引灃水、曲陽侯根驕奢僭上、赤墀青瑣、紅陽侯立父子臧匿姦猾亡命、賓客為群盜、司隸・京兆皆阿縱不舉奏正法。」
(『漢書』元后伝)

その後、この時すでに政界を去っていた王譚と無能な王逢時を除く三人は、揃って成帝の怒りを買った。

王商は長安の城壁を破壊して自分の屋敷に船遊びのための水を流し込むという不法行為
王根は皇帝の宮殿である白虎殿を模した高楼を屋敷内に作っていたという僭上の行い。
王立は逃亡者を匿い、賓客が群盗となっていたという犯罪行為。


成帝は摘発しなかった司隸校尉や京兆尹をも責めるほどの怒りよう。
当時の大司馬将軍王音が謝罪してなんとか怒りを収めたものの、実直な王音がいなかったら王氏は丸ごと断罪されても不思議ではなかったのではないか。

王鳳の心配は当たったのだ。


しかし王鳳にとっては残念なことに、王音は「五侯」より先に死んでしまった。
次に大司馬将軍を継いだのは王商。
結局、「五侯」にお鉢は回ってきてしまったのである。


だが、先に見たように「五侯」は脇の甘さがハンパない連中。
王鳳という強力な人物の陰にいたから好き勝手できたということが多分理解できていない。
そこを翟方進のようなやり手が突かないわけがない。
丞相翟方進が「五侯」叩きと王氏反間を進めたことは前項のとおりである。


当然ながら、成帝の激怒を買ったような人物たちが全幅の信頼を受けるはずもないし、翟方進のような怪物に勝てるわけがない。
王商、王根と大司馬将軍を受け継いだ「五侯」は次第に影響力を失っていき、しまいには翟方進を筆頭とする儒者官僚たちに圧倒されたと言ってよいだろう。
大司馬将軍が「大司馬」だけになったのはその象徴的事件ではなかろうか。


そんな王氏側の窮余の一策が、外戚王氏でありながら儒者としての素養を身に付けたハイブリッド、つまり王莽の大司馬登用であった。