さかのぼり前漢情勢3

ひっそりとhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100205/1265298069の続き。

待詔夏賀良等言赤精子之讖、漢家曆運中衰、當再受命、宜改元易號。詔曰「漢興二百載、曆數開元。皇天降非材之佑、漢國再獲受命之符、朕之不紱、曷敢不通!夫基事之元命、必與天下自新、其大赦天下。以建平二年為太初元將元年。號曰陳聖劉太平皇帝。漏刻以百二十為度。」
(『漢書哀帝紀)

哀帝久寢疾、幾其有益、遂從賀良等議。於是詔制丞相御史「蓋聞尚書『五曰考終命』、言大運壹終、更紀天元人元、考文正理、推曆定紀、數如甲子也。朕以眇身入繼太祖、承皇天、總百僚、子元元、未有應天心之效。即位出入三年、災變數降、日月失度、星辰錯謬、高下貿易、大異連仍、盜賊並起。朕甚懼焉、戰戰兢兢、唯恐陵夷。惟漢興至今二百載、曆紀開元、皇天降非材之右、漢國再獲受命之符、朕之不紱、曷敢不通夫受天之元命、必與天下自新。其大赦天下、以建平二年為太初元年、號曰陳聖劉太平皇帝。漏刻以百二十為度。布告天下、使明知之。」後月餘、上疾自若。賀良等復欲妄變政事、大臣爭以為不可許。賀良等奏言大臣皆不知天命、宜退丞相御史、以解光・李尋輔政。上以其言亡驗、遂下賀良等吏。
(『漢書』李尋伝)

即位から2年ほど経ったころ、哀帝は病に臥していた。
そんな折、夏賀良らによる建言があり、哀帝は上のような詔を下したのだった。


尚書によれば天命が一旦終わりを迎えても、免許更新ができるのだという。俺が即位して以来天変地異や反乱が頻発しててもう大変だ。これは天命の免許更新時期だということだろう。というわけで天命を更新する」


哀帝は「陳聖劉太平皇帝」を称し、太初元将と改元した。四文字の元号は史上初である。

いくら病臥して藁をも掴む思いだったとしても、中々に大胆な布告である。
漢の天命は尽きかけている。だから更新する。使い慣れた皇帝の称号も改める。

この「陳聖劉太平皇帝」騒動は病が癒えないことに怒った哀帝によってすぐに終結するが、一旦は哀帝がこれに乗ったことに注目すべきだろう。
当時の丞相は当時の反改革派の首魁である朱博。2月しか持たなかったのは丞相サイドの反対もあったのではないかと思われる。
それがなければ、この改号はもっと続いたかもしれない。


この騒動からは、哀帝の問題意識が読み取れると思う。
哀帝は、今や漢帝国が衰微しつつあり、このままではジリ貧であるという危機感を抱いていたのである。
もちろん彼個人の問題だけではなく、当時の朝廷にそういう空気があったということでもある。

なんとかしなければいけない。
だが、改革というものには古来より強いリーダーシップとでもいうべきものが必要なものである。
おそらく、哀帝はその危機感から旧制度を墨守しようとする丞相朱博や自分にたてつく丞相王嘉を殺し、大臣たちを屈服させて自分の強いリーダーシップの元に改革を進めて漢帝国を危機から救おうとしたのだ。


哀帝は大臣を屈服させるところまでは成功し、これから改革しようというところで死亡したのである。
次のリーダー王莽は革命者であり改革者であった。
哀帝の成果を引き継いで改革路線を推し進めたのが王莽だったと言えるだろう。


彼の治世は王莽のプロトタイプなのである。良い意味でも悪い意味でも。
しかしプロダクションモデルよりもプロトタイプの方が優秀なのはガンダムでもエヴァンゲリオンでも常識なので、多分王莽よりも哀帝の方が期待できたのではないだろうか。死ななければ。