さかのぼり前漢情勢2

誰も期待していないhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100204/1265210678の続き。

漢の哀帝は二十代の若さで死亡した皇帝で、同性愛ばかり有名だが、班固の賛によれば優れた人物で武帝・宣帝を模範とし大臣をしばしば死に追いやってきた強硬派であったという。

即位当初、哀帝は先朝の大臣たち(王莽を含む儒者)を立てつつも、一方で実の祖母であるやり手の女傑傅氏を強引に皇太后の地位に付けた。
儒者たちはそれに抵抗したが、哀帝と傅氏は儒者による改革に反対する守旧派を味方に付け、正論を盾に反抗する大臣たちを左遷して我意を通したのである。

だが哀帝の本心では、漢には改革が必要だと思っていたようだ。
太后となった傅氏が死亡すると、哀帝はうるさ型の丞相王嘉を獄死に追いやり、董賢を大司馬にまで就任させることに成功する。その後、哀帝に真っ向から歯向かう者がいなくなった時点で、哀帝は官制改革に着手したのである。


具体的には、一旦組織改変が行われながら元に戻されていた三公を復活した。

五月、正三公官分職。大司馬衛將軍董賢為大司馬、丞相孔光為大司徒、御史大夫彭宣為大司空、封長平侯。正司直・司隸、造司寇職、事未定。
(『漢書哀帝紀、元寿二年)

というか、丞相・大司馬・大司空という中途半端な三公であったものを、大司馬・大司徒・大司空という官名まで統一したのである。


これは実は漢代官制上大きな契機である。
なぜなら、丞相はそれ以降200年に渡って混乱期の例外を除いて姿を消し、曹操まで復活しなかったからだ。
官名こそ変わっているが、この時の三公制度が新と後漢の官制に引き継がれているのだ。

宰相が複数であるということは、合議により過誤を防ぎ、互いに専横を監視させることができることになる。
皇帝がリーダーシップさえ発揮できれば、それなりに合理的な制度だと言えよう。
この上古の制度を模範とした三公制度は、相互監視のメリットのみならず高位に昇る官僚がいずれも儒者であるという情勢にもマッチしていた。

おそらくだが、哀帝はこれを手始めに各種官制改革に着手し、弛緩の見えつつあった漢帝国のタガを締め直そうとしたのだろう。


そんな時に哀帝は急死し、大司馬となっていたおホモダチ董賢に皇帝の印章を預けたのであった。
彼の死が自然死なのかどうかを詮索するのは止めておこう。