外は雪景色だがhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100206/1265385758の続き。
哀帝の頃の朝廷に「漢マジヤバイ」という空気があった、哀帝や王莽はそれに対応すべく改革路線を取った、と前回述べた。
これは哀帝になってから始まった事ではなく、それ以前からの懸案事項だったのである。
というわけで、話は哀帝よりさかのぼる。
哀帝の先代である成帝は、かのミクロ系趙飛燕を寵愛したとか、本人に性的な意味以外のやる気が無く外戚の王氏に政治を任せきりにしたとか言われており、世間では哀帝と並んで評判の悪い皇帝であるように思われる。
それはまあ当たらずとも遠からずという部分も多いのだが、当時の情勢を理解する上ではあまりにはしょりすぎである。
成帝が急死するちょっと前、三公制度が開始されている。
哀帝のそれはリバイバルだったのであるが、成帝の時のそれは哀帝の時と同一ではない。
もともと三公に相当するのは三人。
- 丞相
- 大司馬将軍(大将軍など)
- 御史大夫
成帝の三公はこの三人。
- 丞相
- 大司馬
- 大司空
哀帝の時はこうなっている。
- 大司馬
- 大司徒
- 大司空
成帝の時は官名が統一されておらず、また丞相があくまでも筆頭の地位を保っていた。
大司馬がそれまでは将軍に加官される称号で実質的には将軍だったのに対し、成帝の時に将軍位がなくなっている。
哀帝の時は並列が強く意識されていたのに対し、成帝の時は横並びではない。
丞相は何も変わらず、大司馬は大きく性質を変えることになっている。大司空は御史大夫から丞相とほぼ同格に昇格した感がある。
成帝の三公制度では、導入によって得をする者と損をする者が露骨に現れているのである。
夏四月、以大司馬票騎將軍為大司馬、罷將軍官。御史大夫為大司空、封為列侯。益大司馬・大司空奉如丞相。
(『漢書』成帝紀、綏和元年)
成帝の三公制度導入時点での丞相は大儒者翟方進。
大司馬となったのは太皇太后王氏の弟で王莽の叔父に当たる王根。
大司空になったのは翟方進の盟友で儒者の何武。彼はかつて三公制度導入を建言をしたことがあった。
特に何も変わらず、導入後も筆頭には違いない翟方進。
待遇こそ改善されるが将軍ではなくなった王根。
これまで明らかに格下であったものが引き上げられた何武。
そして翟方進と何武は盟友。
更に何武は三公制度推進論者。
この時の制度は翟方進と何武の側から進められたものであったと見て良いだろう。
そして、おそらく裏のテーマとして「大司馬将軍」の地位を拠り所としてきた外戚王氏を抑え込もうという意図があったのではないかと考えられる。