南頓君の命名

初、(劉)歆以建平元年改名秀、字穎叔云。
【注】
應劭曰、河圖赤伏符云『劉秀發兵捕不道、四夷雲集龍闘野、四七之際火為主』、故改名、幾以趣也。
(『漢書』劉歆伝)

論曰、皇考南頓君初為濟陽令、以建平元年十二月甲子夜生光武於縣舍・・・
(『後漢書光武帝紀)

劉歆が劉秀に改名したのと劉秀が生まれたのは同年。
劉歆の改名は『劉秀が悪い連中を捕らえる』という予言をあてにしてのことと説明されている。

劉秀の父(南頓君)もその河図を知っていたかもしれない。
つまり光武帝命名も同じように予言をあてにしてのものだった可能性がある。
(『後漢書』ではもちろん別の命名理由が説明されているが)