新しい嫁

糟糠の妻の修羅場
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130409/1365433266


以前の自分の記事。



ここで「この頃ってこういった「権門などと縁続きになるために今の妻を離縁する」ってことが少なくなかったのだろうか?」という一種の自問自答をしたことがある。




時帝姉湖陽公主新寡、帝與共論朝臣、微觀其意。主曰「宋公威容徳器、羣臣莫及。」帝曰「方且圖之。」後(宋)弘被引見、帝令主坐屏風後、因謂弘曰「諺言貴易交、富易妻、人情乎?」弘曰「臣聞貧賤之知不可忘、糟糠之妻不下堂。」帝顧謂主曰「事不諧矣。」
(『後漢書』列伝第十六、宋弘伝)

又曰「諸卿大為無道、所過皆夷滅老弱、溺社稷、汚井竈。然猶有三善。攻破城邑、周徧天下、本故妻婦無所改易、是一善也。立君能用宗室、是二善也。餘賊立君、迫急皆持其首降、自以為功、諸卿獨完全以付朕、是三善也。」乃令各與妻子居洛陽、賜宅人一區、田二頃。
(『後漢書』列伝第一、劉盆子伝)


それについて多少確認してみたところ、後漢の初期だけを見ても、とりあえずこのような「妻を替える」ことについての言及がある。




宋弘伝ではほかならぬ光武帝劉秀が「諺に『富貴となっては人づきあいや妻を替える』というが、これは人として普通の事であろう?」と暗に宋弘に妻を自分の姉に替えるよう求めている。



劉盆子伝では、降伏した赤眉の樊崇らに対して、「お前らは酷い連中だが、それでも三ついいことをした。その一つが天下を荒らしまわっても妻を替えはしなかったことだ」と光武帝が言っている。






少なくとも光武帝は「富貴になったり各地を転戦したりするうちに妻を替えるものだ」という認識、少なくとも「そういう場合が多い」という世界観を持っていたようである。



光武帝が異様な思想の持ち主ということもないだろうから、当時の全員ということではなかろうが、富貴を前にして妻をより高位の家の者、より有利な家の者に替えようという者が少なくなかった、ということではあったのだろう。